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 2007年7月25日 シリーズ夏・その7 立つ

 男には立たねばならない「時」がある。そんな「時」が巡ってくるのはだけとは限らない。
 私に、その「時」が訪れたのは、高校2年生の夏休みだった。

 私は自宅で学習するという習慣がほとんどなかった。小学校時代は、せいぜい先生に怒られないためにチョコチョコっと宿題をする程度。それも、しばしば忘れて怒られた。
 中学校では初めて学ぶ英語という科目が面白く、自宅で声を出しながら教科書を読んだ。 社会は母のアドバイスに従い、授業中にざら紙に書いたメモを自宅でノートに整理した。が、机に座る時間は、まあ1時間もあったかどうか。
 塾には1度も通ったことがない。小学校高学年の時、クラスで塾通いが流行った。学校が終わっても遊ぶ友がいない。親に、

 「僕も塾に行こごたる」

 とねだったことがある。

 「あんたは、行かんちゃよか」

 とはねつけられた。いま思えば、当時の我が家に、子供を塾に通わせる経済的ゆとりはなかった。
 というわけで、これまで塾や予備校とは無縁の暮らしを続けている。

 それでも、成績は比較的良かった。といっても、田舎の公立小学校、公立中学校である。全国のレベルから見ればたいしたことはない。
 だが、子供の発想は時空を超えない。せいぜい、同じ教室にいるヤツら、同じ中学校に通う同級生しか見えない。その中で上から数えた方が早いポジションを保っていれば、私は秀才なのである。
 我が家は極めて貧困だったが、勉強に関する限り、私には 何の不安もなかった。

 日本育英会(現在は、独立行政法人 日本学生支援機構、というらしい)から毎月3000円の奨学金を得て公立高校に進んだ。 入学試験の成績は、確か36番だった。1学年は約550人だから、これだって上から数えた方が早い位置だ。
 さすがに高校は勉強のレベルが高く、中学までの学習態度では授業に追いつけない。中でも英語は、予習して単語の意味ぐらいは調べておかないと、授業がチンプンカンプンだ。自然、自宅で勉強する。
 当時、日記を書いていた。日記はなくしてしまったのだが、その一節が鮮明に記憶にある。

 「今日は2時間勉強した。さすがに高校生だ!」

 その程度の高校生だった。成績は、もちろん上がることはなかったが、たいして下がりもしなかった。

 そんな鈍感な私でも、2年生1学期に中間試験で

 「エッ!」

 と驚いた。数学の点数が急落したのだ。1年生の時は、ほとんど88点だった。1問4点の問題を、必ず3つ間違う。その結果である。見直してみれば、

 「ああ、ここで計算間違いしとる」

 と分かる程度のミスだ。自宅で勉強をしないがために計算力が身に付いていないという理解の仕方はしなかった。計算ミスだから問題ない、と信じ込んでいた。
 その数学の点数が64点になった。計算ミスだけでは説明できない点数だ。クラスには100点を取る奴もいた。
 期末試験。またしても数学は60点台だった。となると、これは構造的な問題である。

 急に不安になった。我が家の経済状態は相変わらず極貧にある。大学は奨学金を得ていくしかない。しかも、私立大学は問題外である。授業料を支払えるわけがない。選択肢は国立しかない。
 国立大学の入試には、数学が必須である。

 

 

(余談)
私の高校では、早稲田、慶応などの私立大学を志望するヤツらは、
「そうか、お前は数学のでけん(できない)けんなあ」
と同情の対象であった。

 

 夏休みが迫った。長い休みを使って数学をマスターする。私の前にはそれしか道がなかった。私は立つしかなくなった。

 高校の数学をマスターするにはどうするか? 私はできるだけ正確に自分の数学力を診断した。間もなく、解答が見つかった。私は数1を理解していない。数1を理解せずして2年生の数学をこなすことは不可能である。目標は定まった。数1のマスターである。そのために夏休みを潰す。

 1冊だけ参考書を買った。「チャート式数1」。全体で500ページほどあったろうか。夏休みの初日から、私はこの参考書と格闘した。

 我が家にクーラーなどない。比較的凌ぎやすい午前中を格闘の主要時間帯と決めた。縁側で、一番風が通るところを選ぶ。そこに小机を持ち出し。タオルを首に巻いて参考書をめくり、解答、考え方を詳細に説明してある参考問題を1つずつこなした。練習問題もすべて解いた。
 5日たち、1週間たつ。午前中の勉強だけでは夏休み中に参考書をすべてこなすことができない事実が見えてきた。午後、日が差さない縁側に机を移した。庭をにらみつけながら数学に取り組んだ。夜、机に齧り付いた。何度やっても理解できない問題は、夏休み中の登校日に数学の教師を捕まえて質問した。
 最後の問題を解き終えた時、2学期は目前だった。夏休みの40日で、参考書はかなり傷んだ。計算に使ったざら紙は、さて、どれくらいの量に上ったろうか? 拭いても拭いても流れ落ちた汗は、さて、どれくらいの量に上ったろうか? 
 さて、これで成果が出るのか? それは分からなかった。だが、決めた課題を完全にこなした満足感だけは残った。

 2学期が始まった。私の勉強時間は飛躍的に増えた。とはいえ、柔道部の主将を務めながらの自宅学習である。1日の勉強時間が4時間を超えることは希だった。
 その時間の中で、旺文社の大学受験ラジオ講座を聴き始めた。親に無心し、Z会の通信添削を始めた。英語、数学、国語の3科目である。特にZ会は面白かった。難問ばかりである。英語は、辞書をどれだけめくっても日本語に翻訳できなかった。解けない数学の問題は高校の数学教師に教えを請うた。彼も解けなかった。
 だが、田舎高校のレベルで学んでいるのではない、全国レベルで競っているという実感があった。

 高校では、校内模擬試験の成績で大学の合格可能性を判断する。私の成績はたいして上がらなかった。だが、焦りはなかった。私は大学入試の日から逆算して、自分のペースで準備している。そのペースが校内模擬試験のペーストあわないだけだ。

 「おい、この成績ではその大学は……」

 私は高望みしすぎである、との教師の指摘は無視した。私は私のペースを守る。田舎高校のペースにあわせる必要はない。

 「先生、大丈夫ですけん。心配せんでよかですよ」

 高校3年、相変わらず校内模擬試験の成績はパッとしなかった。そんなころ、旺文社の全国模擬試験で、数学が100点だった。これも、2年生の夏休みに「チャート式数1」を征服し、Z会で難問に立ち向かってきた成果だ。

 「見ろ、俺のやり方は間違ってはいない」

 翌年の3月、私は自信を持って国立大学の入試に臨んだ。

 1次試験は難なくパスした。そして2次試験。
 2日目の朝だった。朝食後、軽い下痢をした。こんな時に下痢? 悪い予感がしなかったわけではない。だが、1度トイレに行くと、下痢はそれで止まった。
 2日目最初の科目は数学だった。どちらかといえば得意科目だ。あの夏休み以来の修練の賜物である。1日目は予想以上にうまく行った。得意な数学で合格を不動のものにしてやる。勇み立った。
 教室で試験用紙が配られた。開始の合図と同時に問題に目を通す。全部で5問、試験時間は2時間。3問解ければ合格できるはずである。
 最初の問題から解き始めた。引っかかると次の問題に移る。5問目までざっと手を着けた。どれも答えを出すまでには至っていない。

 「さて、これからが勝負だ」

 残り時間はどれくらいだ? 腕時計を見た。試験開始から、すでに70分が経過していた。とすると、残り時間は50分……。
 その瞬間だった。頭の中が真っ白になった。冗談じゃないよ。まだ1題も解けていないのに、時間は半分以上経過した。残り時間は50分しかない……。
 頭の中を真っ白にしたのは焦りである。後にも先にも、あれほどの焦りを感じたことはない。すべての血液が頭に上ったのだろうか? それとも血液のほとんどが頭から下がったのだろうか? 腹に力が入らない。
 興国の興廃はこの一戦にあり。勝手に萎えそうになる気持ちを励ました。大学生になれるもなれないも、この数学をどうするか、どうできるのかにかかっているのだ。ともすれば暴走しそうになる焦りを押さえつけ、問題に立ち向かった。試験時間が終わった時、5問2中問を解き終えていた。

 3日目、最終科目の試験を終えて教室を出ると、どこかの予備校が解答集を配っていた。まあ、試験会場を出てきた受験生の大半は不合格になるのである。予備校から見れば、ネギを背負って歩き回る鴨の集団だ。寄ってくるのも当然である。
 ひったくるように1部を手にした。数学の欄を見た。目をこらす。だが、いくら見直しても、私がたどり着いた解答と同じ答えは印刷されていなかった。

 しばらくして、不合格の知らせが来た。
 またしばらくして、大学から通知が来た。不合格判定の通知である。この大学は、合格最低点に何点足りなかったかを、20点刻みで知らせてくれた。
 判定は、「A」だった。あと20点、いやひょっとしたら3点取れていれば合格できた。5問で100点の数学は1問20点の配点だ。せめて1問正解していれば……。
 翌年、私は別の大学に進んだ。

 
 デジキャス時代に私の原稿に何度かご登場願ったH氏と知り合ったのは、もう8年も前のことである。デジキャス創設と同時に同僚となり、やがて親密な同志となった。よく酒を飲んだ。

 「えーっ、安堂さんもあの大学目指したの。実は俺もなんだよねえ」

 目指した大学の門をとうとう開けることができなかった中年男同士の会話である。

 「へえ、そうだったの。そう言やあ、あんたは麻布だもんな。だけどH君、俺いまになって思うんだけど、俺にしてもあんたにしても、あの大学に入っていたら、いまごろ鼻も引っかけたくない男になってたんじゃないかなあ」

 「どうして?」

 「だってさあ、2人とも、何でもいいから鼻にかけたい人間じゃない。それがあの大学を出ていたら、そいつも鼻先にぶら下げるアクセサリーの1つになってたんじゃないか? ほら、よくいるじゃない、出た大学を自慢するヤツ。2人とも、そんなヤツらより頭が良すぎるから、遙かに嫌みな人間になっていると思わないか? いまですらお互いこんな人間なんだから」


 「あー、そうだよね。いえてる。あの大学に行かなかったから、この程度でいられるんだよねえ、確かに。よかったねえ、お互い」

 「うん、よかった、よかった。H君、あんたは別にして、いまの俺は人格者ともいわれるしなあ。あの大学に入っていたら、誰もそんな風にいってはくれなかったと思うよ。あんたもあの大学に行かなかったんだから、そろそろ人格者といわれなくっちゃあ問題だぜ」


 「安堂さん、分かってないなあ。あんたが人格者なら、俺は生き仏だよ。そんなことが分からないから、あの大学に入れなかったんだぜ」

 「まあいいや。お互い、いまが最高ってことで乾杯だ」


 「うん、乾杯!」

 さて、私はあの夏、立って、「チャート式数1」と格闘して良かったのか、悪かったのか……。
 ある夏休みの思い出である。



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