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 2008年3月9日 見舞い

 昨日から今日にかけて、大阪へ行ってきた。病気見舞いである。

 高校時代に同級生の親友がいた。私と同姓で、名は輝明という。同姓だと、名字で呼ぶわけにはいかない。私は彼を「テル」と呼んだ。
 風の便りに、そのテルが食道ガンの手術をしたと聞いたのは、もう1ヶ月ほど前のことである。なんでも、開腹したところ病巣は胃にまで及んでおり、食道の大部分と胃のすべてを取り去った。3月4日に再手術をして、残った食道と腸とをつなぐとのことだった。が、聞いても

 「そうか、もう我々もそんな年代になったか」

 と思っただけだった。理由は二つある。

 消化器系のガンは治療法が進み、早く見つかれば完治する例が多くなってきた。もちろん、その後の暮らしに不自由はあるだろうが、命をなくすよりいい。だから、それほど心配しなかった。

 二つ目。こちらの方がより大きな理由だが、テルとはもう40年近く音信不通が続いていた。別に仲違いをしたわけではない。テルは京都大学に進み、私は福岡の大学に進んだ。その後テルは大阪で高校教員の職を得、ずっと大阪に住む。私は一度も関西に住んだことがない。違った土地で暮らす以上、酒を飲む機会はない。違った道を選んだため、お互いに手紙や電話で連絡を取り合う必要も感じない。男1匹、社会人になってまで昔の仲間とベタベタすることはない、と私は考えた。恐らく、テルもそう考えた。せめて賀状だけでも、という世の常識を受け入れる2人でもない。まあ、どちらも変わり者だったのだ。だから気があったのかも知れないが。
 なので、彼が病気になったと聞いても、すぐに駆けつけねばとは考えなかった。私が病に伏せっても、テルも同じように考えたはずである。

 まあ、再手術の様子を聞いて、必要があれば大阪まで行くか。第一、再手術の前に行っても話もできないだろう。行く意味がないではないか。
 せいぜい、その程度に軽く考えていた。

 3月に入ってからのことだった。テルの再手術が中止になったという情報が届いた。CTで検査したところ、あちこちに転移が見つかった。医者は再手術を見送る決定をし、とりあえず、抗ガン剤を処方することにしたという。
 心が波立ち始めた。これは並の事態ではない。

 「だから、テルにメールを書いてやってくれ」

 というメールが来た。そんな……。40年も会わずにいて、ガンと闘っている最中の男に書き送る文面なんて、作れるはずがないではないか。ではどうする……。

 先週の木曜日、新橋の安売りチケット屋で新大阪までの往復を買った。

 吹田市民病院は、新大阪駅から2つ目の駅で下車する。そこから徒歩で15分程度の場所と聞いたが、駅の反対側に降りてしまった。駅からずいぶん離れて間違いに気がつき、タクシーを拾った。午後2時頃病室にたどり着いた。

 40年ぶりに見るテルは一人でベッドに横たわっていた。私の脳裏にいる高校時代のテルではない。すっかり痩せ、短く刈った頭髪は白い。私と並んだら、誰も同級生とは信じるはずがない年代に見える。だが、よく見ると、面影はある。テルである。
 点滴のチューブが2本、腕から出ている。ほかに首と両手に、点滴の針を刺すための器具が3カ所取り付けられている。考えてみれば、彼の食道と腸は、まだ離ればなれのままだ。口からの食事はできない。水を飲むのも不可能だ。彼の生命は、点滴のチューブに100%依存せざるを得ない。

 「よお」

 さて、顔を合わせて何と話しかけたらいいものか。見舞いを決めてからの課題だった。日頃付き合いがあれば、軽口もたたける。が、なにしろ、40年近く連絡を取り合っていないのである。こんな時のためにどんな言葉があるのだろう。

 テルの目が私を見た。目と目があった。リクライニングベッドのスイッチを手に取ると、上半身をやや起こした。私と認めたらしい。テルが喜んだのかどうか、表情からはうかがい知れなかった。

 私には

 「よう」

 のあとの言葉がなかった。無理に言葉を出せば、とんでもないことをしゃべってしまいそうである。言葉を探している間、もっぱら同行したM嬢が話した。
 テルは声がほとんどでなかった。私は耳を澄まして2人の会話を聞いた。ガンが見つかったのが去年の12月だったこと、まだ抗ガン剤治療が始まらないこと、2週間ほど前に大牟田から弟が見舞いに来たこと、今日はそのうち奥さんがやってくること、高校で国語を教えていること、職員会議のしきり役であったこと、65歳まで働けるが、病のためこの3月で退職すること……
 M嬢が高校時代の写真を撮りだした。テルと私に見せる。40年前の瞬間を切り取った写真の人々には確かに見覚えがある。が、何人かはどうしても名前が思い出せない。驚いたことに、テルは全員の名前をすらすらと挙げた。こいつ、体はこんなになっているのに、頭脳は明瞭だ! だが、、それは逆に辛いのではないか……。

 

 

(注)
M嬢も、当然同級生であります。私と同じ年れの女性を「嬢」と表現していいのかどうか迷うところではありますが、ほかに適当な言葉を思いつかないのでお許し下さい。
なお、このM嬢は当時、私のガールフレンドでありました。現在は大阪の小学校の教壇に立ち、奈良県に在住。一男一女の母であります。

 

 テルがM嬢に、かすれた声で

 「お前は出て行け」

 といった。彼らは関西在住の同級生で集まってよく飲み会を開いていた。気心に知れた仲間なのである。出て行け、というのは、お前は必要ない、ということではなく、私と2人になりたいということだ、とM嬢に教えられた。
 テルと2人きりになった。

 テルと2人で「いま」を語る言葉がなかった。どうしてもっと体に注意していなかった、と語ってみたところで得るものは何もない。話は自然、昔話になった。そこにしか共通の土俵がない。

 「最後に会ったのはいつだったかなあ?」

 大阪に来るまで、大学入学以来会っていないと思いこんでいた。ところが、そういった瞬間に、その後もあったことを思い出した。

 「確か、お前が帰ってきたときに、俺の実家で酒飲んだよなあ」
 
 大学3年の時、私の実家で酒を飲んだ。私が結婚を決めて間もなくのことだ。私は結婚することを告げた。テルはガールフレンドができたと話した。

 「おい、どんな女なんや」

 とテルが聞いた。酔っぱらって、自分の婚約者を理性的に説明できる男はいない。

 「いやあ、こう、日本人離れした体でさあ。ボインでもち肌で。いいんだよ、これがいいんだな、うん」

 「そうかあ、俺のもいいぜ」

 「どういいんだ?」

 「締め付けるんだよ。締まりが抜群にいいんだ、これが」

 「お前、抜群にって、分かるほどいろんな女とやったのか? やっと女ができたんで舞い上がってるだけだろが」


 お袋が顔を出した。

 「あんたたち、なんちゅう話ばしよっとね!」


 「あれが最後だったよな。あのとき言ってたのがいまの奥さんか?」

 ベッドのテルがうなずいた。そうか、とっかえひっかえはしなかったか、と悪態をついていると。テルが絞り出すような声で言った。

 「おい、六本松のお前の下宿にも遊びに行った。箱崎にも行ったぞ」

 奥さんがやってきた。初対面の彼女に挨拶した。府と時計を見ると、この病室を訪れてもう30分以上たっている。長時間の会話は病人に酷である。
 我々は引き上げることにした。が、最後に何を言おう? 何を言ったらいいだろう? 相変わらず何も浮かばない。

 「おい、酒が飲めるようになったら連絡しろや。今度は飲みに来るから」

 つまらないことしかいえなかった。テルの手をそっと握った。病人の手を力一杯握るものではない。テルも私の目を見ながら握り返してきた。彼もそっと握ったのであろう。高校時代の握手に比べると、ずいぶんソフトな握り方だった。
 病室を出た。


 大阪での残る日程は、同級生たちとの飲み会である。私が大阪に来ると知り、M嬢を含めて4人集まってくれた。M嬢の友人で専業主婦のY嬢(彼女は初孫ができたそうである。おめでとう!)、市役所の環境部長をしているM君、消防長のT君だ。土曜日の夜、私のために集まってくれた彼らには感謝の言葉もない。
 ビールに始まり、日本酒に変わったころには40年の時間が溶け、皆が高校生に戻った。ついつい飲み過ぎた嫌いはある。が、飲み過ぎたくなるほどいい夜だった。

 前夜の酒を引きずったまま、今朝8時半の新幹線で戻ってきた。
 戻りながら考えた。そしていまも考えている。
 私はテルに、何を語りたかったのか? 何を語ればよかったのか?
 ベッドに寝ているのが私だったら、私は何を聞きたいだろうか?

 残念ながら、いまだに答えは出ないままである。

 

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