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 2008年7月19日 続シリーズ夏・その2 決まった!

 朝、汗まみれになりながら犬の散歩から戻ったら、妻が言った。

 「車、洗わないの?」

 狡猾な言葉遣いである。
 この日本語、文法上は疑問文である。だが、日本語とは複雑な言葉で、依頼としか読めない文章が実は命令だったり、

 

 

(実例)
「あ、時間があったら、私の部屋に来てもらえませんかね」
という上司からの社内電話。

 

 罵倒する言葉が愛の告白であったり、

 

 

(実例)
仕事に振り回された。取引先とのトラブったのだ。
もとはといえば相手の理不尽な要求が原因だった。遠回しに、取引を続けたければ女を用意しろと持ちかけてきたのだ。俺は短気だ。カットした。罵倒まではしなかったと思う。だが、かなりきついことを言ってしまった。
その日から出入り禁止になった。結果を見て俺は青くなった。 我が社にとっては手放せない取引先なのだ。どうする?
顔を見るのもいやだという取引先に日参した。まず会わねばならない。この取引先をなくしたら辞表ぐらい用意しておけと言わんばかりの上司たちの間を飛び回った。向こうが飲むしかない取引条件―当然、我が社にとっては不利な条件である―を整えなければ関係修復ができないからだ。
くたくただった。女に連絡する時間も気力もなかった。やっと一段落つくことができた。俺を誘った。
女はきっと、俺からの連絡もなかったこの1ヶ月間、不安だったのだ。不安な女の想像は、得てして地獄に向かう。会ったらこういわねば、というシナリオを何度も考え、書き換えたのに違いない。待ち合わせをしたバーで俺の顔を見るなり、思い詰めた顔で口を開いた。
「ねえ、どうして1ヶ月以上も私のことを放っておけるわけ? 私、ひとりぼっちにされて考えたの。いいこと、聞いてくれる? こんなだったら、私、耐えられない。別れましょう。あなたって、きっと私のことを愛していないのよ」
俺をジッと見つめる目が可愛かった。きつい言葉を発する唇に吸い付きたくなった。あれっ、こいつ、鼻の頭に汗をかいてる! やっぱり、俺の惚れた女だ。
が、俺の口から飛び出したのは弁解でも、愛の言葉でもなかった。
「バカヤロー!」
おれは女を怒鳴りつけていた。

 

 するのだ。

 「車、洗わないの?」

 これは疑問文ではない。巧みな命令文である。
 長年夫婦を続けていると、そのあたりはすぐに分かる。まあ、確かに車は汚れている。雨に濡れたところ埃が積もり、全体が白っぽい。洗えば綺麗になるだろう。が、ここで

 「うん」

 といってしまっては我が絶対権力が揺らぐ。これは権力闘争なのだ。

 「いや、洗わない。まだ梅雨明けしてないし、今日洗っても雨に降られたら意味ないし」

 NHKで昼のニュースを見た。関東地方も梅雨明けしたらしい。そうか、夏か。
 明日は車を洗わなくっちゃな。


 私が派米少年候補になった。その日から我が家はパニックに陥った。
 それはそうであろう。我が家族で海外体験があるのは、戦争でどこかに行った叔父と、戦時中は満州にいた父だけである。
 叔父は一兵卒として、望みもしない地に連れて行かれた。
 父がいた満州は日本が作り上げた疑似国家に過ぎない。そこは日本の延長線上にある外地でしかなかった。

 えっ、礼人、お前がアメリカに行く? 戦争で日本を打ち負かしたアメリカの地をお前が踏む?
 打ち負かされた日本で、アメリカはあこがれの国であった。強さと豊かさと現代文明の象徴であった。夢と希望と未来の地であった。そこに、こんなに貧しい家庭で育っている礼人が行く。これはもう、田舎のおっさん、おばさんはパニックになるしかない。

 「あんたは声の小そうしてよう聞こえんけんね。面接ん時、ちゃんと面接ん人に聞こえるごたる太か声ば出さんとでけんとよ」

 これは嫁に行っていた叔母のアドバイスである。

 「死んだじいちゃまの喜んどるばい。ほら、ちゃん度仏壇に報告せんね」

 と祖母はいった。いや、おれはまだ候補であって、アメリカに行けると決まった訳じゃないんだけど。

 「うちの息子がアメリカに行くかもしれんとですよ」

 母は、あちこちで吹聴したらしい。困った。

 かくして我が家では、時を追うに連れて、私がアメリカに派遣されることが既定事実になり始めた。
 行きたい。でも、ホントにアメリカに行けるんだろうか?
 そんな疑問を持ち続けたのは、私が見る限り、私だけである。

 面接は、新聞社の福岡市にある支社で開かれた。私は前日床屋に行き、詰め襟の学生服をきっちり着込んで会場にいた。特に何か準備をした記憶はない。いずれにしても面接である。得意の歌を披露するわけではない。ダンスの腕を競うわけでもない。聞かれたことに正直に答えるしかあるまい。叔母のアドバイスによれば、できるだけ大きな声で。

 さて、私のような思いを持ち、私のようなパニック家族を背景に控えて面接に望んだライバルが何人いたのか、とんと記憶にない。面接で何を聞かれ、何を、どの程度の声量で話したかも記憶の彼方である。いったい私は、どんな人たちと何を競ったのであろうか?

 不思議なことに、私が派米少年に決まった。
 我が家はお祭り状態になった。

 と書きながら、どんなお祭りが催されたのかは闇の中である、記憶とは曖昧なものだ。記憶にあるのは、初夏に入って宴会が開かれたことだけである。

 「らかす日誌 2007年6月30日 シリーズ夏・その3 恥と意地」で書いたように、我が家には10畳の座敷が2つあった。宴会はそのひとつで開かれた。集まったのは5人や10人ではない。なにせ、安堂家から派米少年が出たのである。これは家門の誉れである。安堂家は、私のじい様がブイブイいわせたあと、私の親の世代は穀潰しばかりである。その世代を経て、次の世代にホープが現れた。どうだ、安堂家は、15歳でアメリカに雄飛する子孫を持つ、栄えある家系なだ! 礼人は斜陽にある安堂家を再興する人材なのである!!
 その期待を裏切ったことは誠に申し訳ない。私も自分にできることはしたつもりなのだけれども……。
 が、当時の関係者が私の先行きを知るわけがない。彼らが知るのは、目先のホープ君だけである。父系、母系の親族、それに新聞販売店の首脳が寄り集まり、私の話を肴に、酒を飲み、飯を食った。いろんな親戚が、いろんな祝い医の言葉を言ってくれたはずである。
 だが、私もいい加減な男である。記憶にあるのは、嫁に行った叔母が、セイコーの自動巻腕時計をプレゼントしてくれたことだけだ。ほかの人たちは、どんな祝い方をしてくれたのだろう?

 でも、という思考の仕方は、当時から習い性だったようだ。
 でも、なんで私が選ばれたんだろう? そんなに俺が優秀か?

 いや、自分に自信がなかったわけではない。成績はトップではないにしろ、トップクラスにはいた。自宅学習などほとんどせずに、である。それに、新聞配達でもある。新聞配達とは、故ケネディ大統領も幼いころやっていた栄誉あるアルバイトなのである!
 でも、そんなヤツって、ほかにもいるんじゃないか? 何故俺が選ばれたんだ?

 以下は、その後知った事実である。
 私が働いていた新聞販売店の店主は、飛永和成さんという。飛永さんは地元の商工会議所の副会頭だった。
 いや、それもたいした要因ではあるまい。なるほどと思ったのは、飛永さんが、福岡県の新聞販売店組織の会長を務めていたことである。福岡県は九州・山口では最大の勢力である。そこの販売店組織の会長の意向を、新聞社が無視できるはずがない。
 私は飛永さんの力で、アメリカに行かせていただいた。

 私は決して自分を卑下しているわけではない。どんな政治的力学が働いたにせよ、15歳でアメリカの地を踏んだのは私なのである。そして、飛永さんに、

 「この子なら推薦しても恥をかかない

 と思わせたのは私なのである。誇りである。

 

 

(余談)
その飛永さんは、ずいぶん前に鬼籍には入られた。通夜にも葬式にも列席できず、長文の弔電を送った。
何を書いたか忘れたが、式で読み上げていただいたそうだ。
改めて、飛永さんの冥福を祈る。

 

 渡米までの騒ぎは、宴会で終わりかと思っていた。
 世の中は甘くなかった。騒ぎは続き、拡大し、私は想像もしなかった世界に導かれていった。

 

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