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 2008年10月21日 私と暮らした車たち・その1 前史その1

 我が車のタイヤがパンクしたことで、「しばた新聞」の柴田さんと、このページを通じて対話をした。柴田さんの専門知識は極めてありがたかった。

 でも、

 「あれれっ!?」
 
 と焦ったことがある。私がBMWに乗っていることがばれちゃった! これまでこのページでは触れないようにしてきたのに。私としてはbest selectionと思っているが、なにしろ、一時は六本木のカローラともいわれた車だけに、

 「こいつ、そんな軽薄な車に乗ってるの!」

 という小馬鹿にする人もいるかも知れない。私は蔑まれるのは嫌いなのである。まあ、蔑まれかねない資質が私にはたくさん備わっているから、自ずと自己防衛機能が働くのかも知れないが。
 困った。どうしよう……。

 というのも、ほんの数分だった。諦めの良さも私の資質の1つである。起きたことは起きたことである。取り返しはつかない。ばれちゃったか。仕方ないジャン、と考えていて、ふと思いついた。
 せっかくばれたのなら、積極的に書いちゃお!

 というわけで、私が人生の一時期をともに過ごした車たちを書いてみることにした。無論、選択した時の私もふんだんに登場する。
 といっても、長い歴史である。まず「前史その1」から始めたい。


 私が自動車の免許を取ったのは、20歳の時だった。いまとなれば奇跡のようだが、私にも20歳の日々があった。
 運転免許は仕事のためだった。

 私は現役で大学に合格するという優秀な人達から1年遅れ、19歳で大学に入った。いわゆる、一浪、ひとなみ、である。こうして、引っかかりもっかかりの多い我が人生の幕が本格的に開く。
 
 さて、大学に入った。嬉しかった。大学に通ったことが、ではない。大学生の4年間という時間を持てることが、何にも増して価値があった。
 大学は授業に出るところではない。教室で教師の話を聞き、ノートをとり、必死に記憶する。そんな勉強は高校で終わりである。最高学府である大学は、自由に学び、自由に考える場所なのだ。何を学び、何を考えるかは私がめる。4年間は我が人生のオアシスで、私はそこに君臨する王なのだ。
 単位? 取れればいい。優、良、可、不可。そんなものを気にするのは小物である。人生の大儀は、優の数を揃えることなどにはない!
 そもそものスタートから、ひょっとしたら間違った考えにとらわれていたのではないか? と考えるのはずっと後のことである。

 そんな私にはおあつらえ向きの時代ではあった。

 入学式に、青いヘルメットをかぶって口をタオルで隠し、ゲバ棒(死語かなあ……)を手にした学生が約30人、なだれ込んできた。演壇を占拠すると教授たちを押しのけ、アジ演説を始める。

 「ここに、結集された、新入生の、諸君! 我々は、ここに、日本帝国主義の出先機関としての、大学の、入学式を、暴力でもって粉砕し、日本帝国主義との闘いの、最前線に立つ、我々の手で、日帝が完遂しようとした入学式を、革命的に、止揚したことを、まずもって、報告したい、と考えます……」

 いや、もうずっと昔のことである。アジ演説の中身なんて記憶にあるはずがない。当時の雰囲気をお伝えしようと再現を試みたが、私の手に余ることが分かっただけである。あいつら、何をマイクでがなっていたんだろう?
 でも、面白い。大学って、なかなか刺激的なところではないか。反帝国主義、反スターリニズム、学園闘争、70年安保闘争。日本に革命を引き起こす。国家権力を資本家どもの手から奪い取り、労働者の国を作る。それ、いいジャン! 俺、貧乏だし。
 私の大学生活は、このように始まった。

 数日後、授業が始まった。ま、いくら私でも最初は授業に出てみようと思う。英悟と第2外国語のドイツ語、それに体育は必須。選択科目は、高校ではなかった社会思想史、哲学、経済学(当然、マルクス経済学)……。

 何度授業に出ただろう。そのうち、クラ討(クラスで討論することをこう呼んだ)が頻繁に開かれ始めた。議題は、全額バリケード封鎖、である。大学のすべての出入り口に学生の手でバリケードを築き、大学を学生が自主管理したい。その是非を議論する。個々のクラスでの議論を下敷きに自治会の方針が決まる。

 クラ討には必ず1学年上の先輩が指導に来た。私と同じ歳の先輩もいた。まあ、これはこちらが1年だけたくさん受験勉強をしたのだから仕方がない。
 討論はもっぱら、彼らとの間で繰り広げられる。彼らは、過去1年間、学生運動らしきことをやってきて、それなりに議論を積み重ねている。学生自治を論じ、大学の、学問の反人民生をあげつらい、日米安保を、革命を語る。
 いまから思えば、たいした議論でも、論理でもなかった。だが、経験皆無の新入生が勝てるわけがない。クラ討とは、2年生による1年生の説得の場、当時の言葉で言えばオルグの場でしかなかった。
 そいつらも、1年上のヤツらに吹き込まれた論理を必至で使いこなそうとしていたに過ぎない、といま冷静に判断できるのは、ずっと後になってからのことである。

 議論で負けても、必ずしも納得しないのが人間だ。なんか、あの場では言い負かされたけど、俺の考えてることの方がまともではないか? ただ、俺はそのまともさを言葉にする技術が身に付いていないだけではないか? 釈然としないものが残る。
 だからクラ討に出てくる学生の数は徐々に減った。最後は、クラスとしての意思決定もできないほどの出席率になった。
 たった1年だけ先に大学に入ったヤツらが、たった1年だけの優位性を最大に活用して下級生を操縦し、大学を支配する。これが大学自治か?

 と考えたのはずっと後になってのことだ。私は、バリスト推進派だったのである。バリストに反対する日和見学生など大学に来なければいい。あいつらは、自らの思いを主張する権利を放棄した膳弱なインテリたちである。天下国家を見向きもせず、ちっぽけな自分の日常を後生大事にする俗物に過ぎない。日本の未来はヤツらの上にはない。未来を作るのは我々である!
 ホントにそうか? といまは冷静に考える。

 いずれにしても、大学は半年間のバリストに突入した。全学共闘会議と称した自治会の執行部連中や中核派、革マル派、反帝学評などのセクトに所属する連中は忙しい日々だったに違いない。
 私? うん、ヘルメットをかぶって街頭デモには行った。不当弾圧許すまじと、裁判所でのデモにも出かけた。ギターを抱えて街頭で歌ったりもした。当時、フォークゲリラと呼ばれた。別に「ゆず」みたいメジャーデビューしようと思ったわけではない。下宿では、世界を論じ、国家を論じ、大学を、学問を論じた。
 それでも、時間はたっぷりあった
 私は読書にのめり込んだ。そのあたりは「グルメらかす 第5回 :豚足」に書いた。果たしてあれは、有意義な日々だったのか? それとも、若気の至りで無駄に時間を費やしただけなのか?
 ま、無駄も人生ではあるが。

 私は弁護士になろうと思って法学部に進んだ。強い者が弱い者を虐げる。それがいまの世の中である。すべての弱者は社会の犠牲者である。我がファミリーも犠牲者の一員、私も同じである。ところが私は、大学教育を受ける幸運に恵まれた。であれば、救いが必要な人々の役に立つしかないではないか。私は弁護士になって、かつての私を救う。私のような思いをする青年をこの世からなくす。

 いや、噴き出さないで頂きたい。当時の私は真面目にそう考えていた。私は弱者の味方正義の弁護士になる、と。

 そう思いながら、読書に邁進した。弱者を救うのはマルクス主義である。まず、彼の思想を我が血肉とせねばならない。血肉として、能力の怖じて働き、必要に応じて消費する共産主義鞘会を実現する。私は弁護士となり、そのための捨て石となる。
 デカルト、カント、ショーペンハウエルは、マルクスを読みこなすための序章だった。
 デカンショ節のデカンショとは、この3人の名前から来たそうだ。ま、どうでもいい話だが。

 だが、時間とは実に有意義なものである。デカルト、カント、ショーペンハウエルの著作が一字一句理解できなくとも、「絶対矛盾的自己同一」という摩訶不思議な日本語を目にして、書いた西田幾多郎とはキチガイに違いないと思ったとしても、傍目には自堕落で無駄な時間を過ごしていると見えても、時間は過ぎていった。
 そして、私は考え始めてしまったのである。

 「ちょっと待てよ。法律とは、権力者どもが勝手に決めたものではないか。そんなものを学んで、そんなものを使って、虐げられた人々を救うことができるのか?」

 この歳になれば、世の不公平をなくす、虐げられた人々を救う、それを私がやる、というおは思い上がりであると思う。世の仕組みはそれほど簡単には変わらないし、人はそれほど簡単に救われるものではない。1人の人間の力には限りがあるし、私にはたいした力もない。
 だが、当時の私には大問題だった。若さとは情熱であり、正義であり、無鉄砲であり、夢を見る権利であり、無知であり、思い上がりなのだ。
 だから若さとは素晴らしい。

 いや、そんなことは後日談である。当時の私は、人生の目標としてきたものに疑問を感じ始めていた。それでいいのか? 俺は本当にそんな人生を歩むのか?

 街頭デモをしながら日本革命の可能性さえ感じていた70年安保は負けた。落ち込む暇もなく、私には専門課程に進む日が近づいた。私が通った大学では1年半の教養課程を終えると、専門課程に進むのである。いよいよ、本格的な法律の勉強が始まる。

 「でも、こんな気分のままで、法律の勉強に邁進できるか? できなきゃ、司法試験に通るなんて不可能だぞ!」

 私は人生の岐路に立たされた。
 岐路に立たされた人間は、様々に思考を巡らせる。巡らせても、結論はなかなか出ない。当たり前である。その程度で結論が出る問題なら、とっくの昔に結論は明らかになっている。

 私は考えた。

 「えーい、下手な考え休むに似たり。さぼっちゃえ!」

 私は1年間の休学を決意した。
 学校を休む。これにはいくつかのメリットがある、と考えた。

 まず。正々堂々と大学に行かなくて済む。ま、授業にでなくても、萎縮していたわけではないが。
 2つ目。結論を出す時期を先延ばしできる。考える時間が増える。いくら俺でも、1年間も考えれば結論は出るだろう?
 3つ目。休学期間中に働こう。そうすれば、貧しい親に金銭的負担をかけずに済む。
 4つ目。仮に司法試験を目指すことになったとしよう。そうすれば、アルバイトの時間はなくなる。1年間働けば、 その程度生活資金は貯まるだろう。
 5つ目。 当時の議論では、革命の主体は労働者だった。学生は露払いに過ぎない。ん、それてホントかよ。とは思うものの、やっぱりそうかなとも思う。俺には労働者コンプレックスがあるようだ。だとしたら、1年間労働者になってみることも意味があるんじゃないか?
 6つ目。1年間もまるっきり勉強しなかったら、自ずから学習意欲がわくんじゃないか?

 どう考えても、いいことばかりである。でも、何をして働く?
 よし、トラックの運転手をしよう!

 何故そう思い立ったのかは分からない。だが、私は思い立ってしまった。大学2年、20歳の夏であった。そういえば、成人式にも出なかったなあ。
 そういえば、成人式の時は、式場の前で

 「成人式粉砕!」

 なんてビラを配ってたなあ。

 夏休み。家に戻って大工手伝いのアルバイトをしながら教習所に通った。約2ヶ月後、私は普通車の運転免許を手にした。
 
 こうして、私と車のつきあいが始まった。

 

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