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 2009年1月28日 私と暮らした車たち・その27 BMW318iツーリングの4

 我が家に到着した濃紺のBMW318iツーリングのドアを開けると、レザーシートが目に飛び込んだ。車体の色に合わせて選んだのは、艶消しの黒である。見た目は極上、手触りも極上だ。新車の匂いに混じって、皮の匂いも漂ってくる。
 ウーン、ゴージャス!

 と1人悦に入っていればいいものを、邪魔するものがあった。私には余分な知識があるのである。歴史をさかのぼれば、豪華なシートは布製で、粗末なシートがレザーだったという知識である。

 車輪のついた箱で人間が移動し始めたのは馬車をもって嚆矢とする。いや、その前にも馬にひかせた戦車なんかがあったな。チャールトン・へストン主演の「スパルタカス」は戦車対戦車の戦闘場面がなければ気の抜けたビールだよな。

 それはどうでもいいが、馬車を思い起こして頂きたい。馬につながれた馬車の一番前には御者台がある。そこは、使用人である御者が座る場所だ。そのシートに使われたのがレザーなのである。使用人にレザーシートを与えて、主人はどんなシートに座っていたか? それが布なのだ。いまの感覚からすれば、逆じゃない? といいたくなる事実である。

 だが、それは当然の選択なのである。御者台は常に天日、雨風にさらされる。それにもめげず、長持ちする素材でなければ役目は果たせない。布がその役割を担えるか? NO! レザーでなければその役割は果たせない。
 では、ご主人様たちが座る座席はどうして布製だったのか? ここには屋根がある。お日様も雨も風も、原則的に入ってこない。だから、持ちがいい素材を使う必要はない。優雅で、座り心地のいい素材が選ばれる。それが布なのである。

 「だから、レザーシートが豪華だという最近の風潮はおかしいんですよ。気持ちよく座るのなら布製のシートが上なんだから。オープンカーなら、シートが日光や雨、風にさらされるから、レザーしか選びようがないでしょうけど」

 と私に教えてくれたのは、どこかの車メーカーの社員だった。

 いまでもそれは知識としてしっかり生き残っている。なのに、生まれて初めてレザーシートの車を持つことになった私は、やっぱり

 「豪華ジャン!」

 と舞い上がった。
 人間とは時代の子である。その人間を動かすのは知識ではない。論理的に積み上げた結論でもない。レザーシートが高級だという時代思潮に染まりきった感情に振り回されるのが人間なのである。

 私もそうなのだろうか? と考えた。考えたら、結論らしきものが見えてきた。
 私はこのレザーシートに27万円も払った。喜ばねば元が取れないではないか? 私が豪華と感じているのはレザーシートではなく、27万円ではないか?

 と反省して口をつぐんでいれば傷はなかった。だが、舞い上がった勢いは止まらない。数日後、私は知人に新車自慢をしていた。

 「でね、レザーシートにしたのよ。事故のあとだから、なんかこうパーッとやらないとけったクソ悪いし、犬も乗せなきゃならないんでね」

 「ふーん、でも高かったでしょう」

 「高かったー! 27万円だよ。本当に高かった」

 ひょっとしたら私の小鼻はピクピク動いていたかも知れない。だが、知人の一言で私は凍り付いた。

 「ねえ、安堂君、君の家に27万円もする家具ってある?」

 考えた。タンス、テーブル、食器棚、ソファー……。
 なかった。私の所有物で27万円以上したのは、家と車程度であった。
 俺、何か大変間違った買い物をしてしまったか?

 私は無言で、コソコソとその場を退散した。

 寸鉄人を刺す。彼の一言は、正確に私の盲点を刺し貫いた。
 が、買っちゃったものは買っちゃったのだ。いまさら元には戻せない。


 「いいんだよ。もともとは犬を車に乗せるためのレザーシートなんだから。27万円はちょいと高かったけど、本来の目的は達したんだから」

 自分で自分を慰めた。が、その慰めもやがて打ち砕かれる。

 「リン、こっち!」

 犬を連れて出かける日、私は「リン」に荷室に指し示した。荷室に犬を乗せる。それがツーリングにした最大の目的だったのだ。今日からそれを実行せねばならない。

 座席を示せば喜んで飛び乗るようになっていた「リン」は、荷室に尻込みした。犬とは臆病な生き物なのである。だが、ここに乗ってもらえないことにはツーリングにした意味がない。嫌がる「リン」を無理矢理荷室に追い込み、ドアを閉めた。荷室と座席の間にはセーフティネットを張ってある。慣れるまでの辛抱である。
 「リン」は吠え続けた。恐らく、何で私をこんなところに閉じこめるのよ、いつものように座席に乗せなさいよ、という抗議であったろう。だが、こちらは聞く耳を持たない。荷室になれてもらわなければ困るのである。抗議を無視して発進した。

 やがて、泣き声に混じってゴソゴソという音が後ろから聞こえてきた。横に乗っていた妻に、

 「何やってんだ? ちょっと見てみろよ」

 と促した。後ろを振り返った妻が素っ頓狂な声を出した。

 「止めてよ! こっちに入ろうとしてる!!」

 あわてて車を路側に寄せて止め、荷室を振り返った。確かに、「リン」は荷室を脱出しようと奮闘中だった。荷室と座席の間に張ったセーフティネットには、左右にわずかな隙間がある。荷室に積んだ荷物が急ブレーキなどの際に座席に飛び込むのを防ぐのがセーフティネットを張る目的だから、左右にわずかな隙間があってもまったく構わない。だが、「リン」にとっては、そこが唯一の脱出口だった。狭い隙間に頭をねじ込むと、次の瞬間、体全体をくぐらせ、座席に飛び込んで来た。

 「…………」

 唖然とする我々の前で、「リン」は得意そうに吠え続けた。

 「これじゃあ、ツーリングにした意味はなかったな」

 セダンに比べ、ツーリングは30万円ほど高かった。なのに……。
 まあ、いい。座席に乗りたければ乗るがよい。そういうこともあろうかと、大枚27万円も払ってレザーシートにしたのである。できるだけ爪を立てないようにして、そこに座っているがよい。いくら抜け毛があっても、レザーシートだから掃除は楽なのだ。

 そんな弁解も、寿命はすぐに尽きた。
 忘れていたのである。車内はシートだけで構成されているのではないことを。そうなのだ、シートのほかに、車内はがあり、そこにはカーペットが敷いてある。確かに、シートに落ちた抜け毛の処理は楽だった。だが、布製のシートならシートにとどまっていた抜け毛が、レザーシートを滑り落ちていたのである。床のカーペットはたっぷりと抜け毛を吸着していた。カーペットの繊維と抜け毛が、実に心地よさそうに絡まり合っていた。

 「これじゃあ、レザーシートにした意味はなかったな」

 ガムテープで抜け毛を取りながら呟いた。呟きながら考えた。ツーリングとレザーシートで60万円前後。どっちも意味がなかったとしたら、どうやって元を取ればいいんだ?
 考えに考えた末の決定に思わぬ落とし穴があった。

 To err is human, to forgive devine.
 (過ちは人の常、許すは神の業)

 だから人間は愛おしい存在なのかも知れないが。でもなあ、60万円、痛かったなあ……。

 様々な問題を乗せながら、濃紺のBMW318iツーリングは走り始めた。運転席に座り、ハンドルを持つと問題はすべて頭から消えた。それほど楽しい車である。
 セダンに比べて100kgほど重いBMW318iツーリングには、セダンほどは出足も加速もなかった。それでも、信号レースで負けた記憶がない。レースをする気はなく、軽くアクセルを踏むだけなのにスッと走り出し、たちまち先頭に立つ。
 なめらかに吹き上がるエンジン。思い通りに曲がり、思い通りに止まる。たかが車に乗るのがこれほど楽しいとは!

 いいよ、60万円。この快適さがあれば、ほかはどうだっていいじゃないか!

 たちまち私はBMW318iツーリングの虜になってしまった。

 

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