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 2010年1月17日 山火事

 携帯電話が突然鳴った。昨夕、散歩中のことである。

 「安堂さん?」

 聞き覚えのある声だった。そうか、前日、金曜日に会った人ではないか。

 「うちの山から火が出てしまって、いま消防車がたくさんやってきて消火中なんですわ。この北風でしょ? 山裾の方に人家があって、そっちの方に燃え広がっていて困ってるんです。いや、とりあえずお知らせ知っておこうかと思って」

 知らせて頂いても、私にできることは何もない。が、せっかく知らせてくれたのだ。何もできませんよ、と放っておく訳にもいかない。袖すり合うも多生の縁、である。

 「大変ですね。とりあえず行きますわ」

 と答えてはみたものの、なにせ散歩中なのである。家を出ておよそ20分。できるだけ脈拍を上げるため早足で歩いてきて、折り返しの目的地直前にいた。つまり、家から一番遠い地点で電話を受けた。

 桐生市に流しのタクシーはいない。タクシーが必要なときはタクシー会社に電話をしなければいけない。つまり、一番遠い地点にいる私が、できるだけ速く山火事の近くに行くには、できるだけ速く歩いて自宅にたどり着かねばならない。妻が車を運転できれば迎えに来させるのだが、あいにく妻は無免許だし、たとえ免許を持っていたとしても、彼女が運転する車に乗せてもらう度胸は、私にはない。

 折からの空っ風の中、できるだけ早足で自宅にまで歩いた。寒風の中を歩いてきたというのに、うっすらと汗をかいている。

 「出かける」

 言い残して車に乗った。エンジンをかけ、iPodonにする。こんな時に不謹慎かもしれないが、これは一連の動作である。音楽のない運転席など考えることもできない。
 ありゃ、流れてきたのはマイケルさんのビリー・ジーンではないか。ビリー・ジーンって俺の女じゃないよ、って、山が燃えてるんだけどなあ……。

 「こんにちは」

 電話をくれた地主さんの玄関ドアを開けた。誰も出てこない。そうか、大きな家だから玄関の声は聞こえないか。だったらインターホンで。
 ピンポーン。
 待つ。誰も出てこない。そうか、みんな山に行ったか。それにしても、戸締まりもしないでみんなでかけちゃうなんて不用心だなあ。この家、お金持ちだから、何か持って行こうか? これ、火事場泥棒? いや、火事場はずっと離れた山の中だよなあ……。
 妄想はそのあたりにして、仕方ない。とりあえず、煙が見える方に行ってみるか。

 「あの、どちら様ですか?」

 歩き出そうとしたら、玄関から声がかかった。そうか、大きな家だから、インターホンを聞いて玄関に出るまでたっぷりと時間がかかるのか。
 顔を出した女性はまだ若い。息子の嫁か。そういえば同居してるっていってたな。

 「電話をいただいて、驚いて飛んできたんですが、ご主人は?」

 「山の方に飛んでいって戻ってきてないんですけど」

 「いまどちらにいらっしゃるでしょうね、と聞いてもわかりませんよね?」

 「……、はい」


 車をその家の庭に置き、坂道を降りて車道に出た。これから煙に向かう。
 ん? 煙? 遠いな。歩いていけるかな? やっぱり、車で近くまでいった方がいいんではないか? うん、車に戻ろう。
 と坂道を上り始めたら、ご主人が軽トラックで戻ってきた。いいタイミングだ。なにしろ、散歩はずませたばかりなのだ。

 「いやあ、来て頂いたんですか。よかったのに」

 あなたね、私の大事な、高血圧対策散歩の途中に電話をしておきながら、その言い方はないでしょ! あんな電話をもらったら、誰だって駆けつけるでしょ? 来なくていいんなら、電話なんてしなきゃいいじゃない!
 とは、口が裂けてもいってはいけない。彼は、持ち山から火が出て動転しているのだ。その心情に思いをいたせば、ここはぐっと我慢をしなければならない。それに、電話をもらったタイミングが良くて、散歩は予定の距離を歩いたわけだし。

 「火はどうですか?」

 必要なのはこの一言である。この一言を言うために、ビリー・ジーンを聴きながら車を転がしてきたのである。

 「おかげさまで下火になりまして、もう人家に移る心配はなくなりました」

 空には、まだヘリコプターが舞っていた。火元への消化剤散布はまだ続いているらしい。

 「お入りになりませんか。火はほとんど消えたし、外は寒いでしょ」

 誘われて茶の間に上がり込んだ。掘り炬燵がある。そういえば、前日もこの掘り炬燵に足を入れながら話を聞いたんだったなあ。

 「安堂さん、私の趣味がカメラだっていうことはお話ししてましたよね。でね、趣味ってものは大変なものですなあ。自分の山鹿燃えてるってのに、家を出たときはカメラを抱えて、現場に行ってシャッターを押しまくってましたもんねえ。自分の山が燃えてるってのに、ねえ。……、見ます?

 あんた、アホか? というのは禁句である。火事の写真には興味がないので結構です、という言葉も避けた方が好ましい。

 「はい、見せてください」

 といった私は、身過ぎ世過ぎのベテランである。

 コーヒーをごちそうになって帰宅した。帰宅しながら考えた。
 この方、関ヶ原で破れてこの地に逃げ込んだ武田家家臣の17代目である。武力を持ってこの地に入り、武力で周りを従え豪族になったらしい。ご先祖の力量を反映して、資産が山ほどある。燃えた山も、ご先祖が残した。

 「でも、膨大な資産を受け継ぐって大変だな。あの山を受け継がなかったら、火事で肝を冷やすこともない。そういえば、最近はイノシシ被害で困ってるっていってたな。持てる悩みは果てしないらしい」

 私は、故郷の大牟田市に100坪の土地を持つ。ご先祖から受け継いだものである。ここで山火事は起きないし、イノシシも出ない。それはありがたいのだが、私は故郷に戻る予定はないし、この土地を活用するプランもない。なのに、固定資産税はしっかり取られ、見返りはゼロ。

 「うむ、持つって辛いよな」

 大資産家と、100坪の地主。規模は天と地ほど違うが、持つ悩みは共通だ。悩み方のダイナミクスに雲泥の差があるとしても。

 夜、電話が来た。

 「出火原因がわかりました。とりあえずお知らせしておかねばと思ったものですから」

 「へえ、何でした?」

 「小学5年生のタバコだそうです。山に入って隠れて吸っていたんですな」

 だからタバコは全面禁止、禁煙の徹底をはかるべきだと論じるのか。規制が厳しいから、子供が隠れて吸う。そちらの方が遙かに危険だと唱えるか。
 判断の分かれるところである。

 いまは知らないが、デジキャスで一緒だったH氏が通っていた頃の麻布高校には、あちこちに灰皿が置いてあったそうだ。

 「高校生は禁煙でしょ? なのに、何故灰皿が?」

 と詰め寄る父兄に、教師は平然と答えたそうだ。

 「だって、子供たちは吸ってますよ。だったら、灰皿を置いておかないと危険でしょ?」

 私は、このおおらかさが好きである。

 麻布の出身者には、H氏は無名だが、著名人が多い。
 谷垣禎一自民党総裁、福田康男元首相、橋本龍太郎元首相、古川享 - 元マイクロソフト日本法人会長、  氏家純一 - 野村ホールディングス会長・元社長、作家の吉行淳之介山口 瞳、高橋源一郎、俳優の小沢昭一神山 繁、ジャズピアノストの山下洋輔……。

 いや、だからどうだっていうこともないんだけど。

 

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