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 2011年11月27日 仏教

 ひょっとしたら、この話は一度書いたかも知れない。齢を重ねるとは、繰り返しが増えることだともいうから、まあ、我慢してお付き合い願いたい。

 あるところで、確か禅宗の偉い坊さんに会った。歳を聞くので、還暦を過ぎたと伝えたところ、

 「あなたもそろそろ、仏に帰依されてはいかがですか?」

 と宣うた。この坊さん、位は高いらしいが、さて、なんぼのもんやねん。

 「いや、私は煩悩があってこそ人間だと思っています。仏門に入って煩悩を消し去ったら、私は人間でなくなる。それは嫌なんで、このまま生きていきますわ」

 私の論理にひれ伏したのか、あきれ果てたのか、そのお坊様は何もおっしゃらなかった。


 さて、ここからが本題だ。

 というぐらい宗教心のない私が、最近、仏教の本を読んだ。「仏教、本当の教え インド、中国、日本の理解と誤解」(植木雅俊著、中公新書)である。

 この程度のことで驚きめさるな。私はエロ小説から宇宙論まで、様々なジャンルの本を手にする。最近は、純文学と言われるモノには

 「何がいいたいの? 判らん!」

 とやや拒否反応を示し始めたものの、まあ、我ながら幅は広い。仏教関連の本を手にしたといっても、知的好奇心から手にしたのであって、棺桶に入る日が近づいているからではない。

 で、この本だ。実に面白かった。
 何しろこの人、教典を、サンスクリット語の原典から漢訳された中国バージョン、そして漢訳を元にした日本での仏教解釈にまで踏み込み、いわば伝言ゲームで、元の意味がすっかり変わってしまったところがたくさんあると、具体的に指摘している。面白くないわけがない。

 冒頭、北枕の話が出てくる。
 日本では、頭を北に向けて眠る北枕は忌み嫌われる。頭を北に向けて寝るのは、人が亡くなるときの寝方である、という理由だ。いまでも、亡くなった方をわざわざ北枕にする風習を持つ地方は多い。

 筆者は、子供のころからこの風習に逆らった。

 「人が寝るとき、頭を北に向けることぐらいで、とやかく言うような、その程度のものが仏教であるのならば、僕は仏教なんか信じない」

 と子供心にも思い、実行していたというから、半端ではない。

 長じて、彼はその姿勢で仏教に挑む。そして、生の姿の仏教に心をひかれる。その視点から見ると、日本で仏教だと思われていることのいい加減さが浮かび上がる。
 やや強引な解釈かも知れないが、そんな本である。

 そうそう、北枕とは、仏陀が亡くなったときに、頭を北に向け、顔を西に向けて横たわっていたことから、日本の仏教者が

 「北に頭を向けるのは、人が亡くなるときの寝方である」

 と早とちりしたことに始まるらしい。
 実は、インドでは北に理想の国が、南に死者の国があると考えられていて、インドでは北に頭を向けて寝る生活習慣があったのだという。お釈迦さんも、いつも通りに横たわっていて入滅されたのである。

 という話から始まる本が面白くないわけがないだろ?!

 まあ、面倒臭い本でもある。何しろ、きちんと論拠を示すためなのであろうが、原典であるサンスクリット語を示し、そこから訳された中国語と比較し、問題点をつまみ出す。もちろん、漢語訳された仏典から生まれ出た日本の仏教も批判的考察の対象である。

 般若心経に、こんな下りがある。といっても、私が般若心経に詳しいわけではない。せいぜい、坊さんが唱える呪文を聞いたことがある程度である。何をいっているのかまったく判らないあの呪文、睡眠薬として役に立つ、と思っている体たらくだ。
 ただ、坊主の読む教典を覗いたことがある。そこに、こんな漢字の連なりがあった。

 掲帝・掲帝・ 般羅掲帝・ 般羅僧掲帝・菩提・僧莎訶

 これを坊主は

 ギャーテー・ギャーテー・ハラギャーテー・ハラソウギャーテー・ボジ・ソワカ

 と読む。何のことか判らない。
 筆者によると、これはサンスクリット語では

 gate gate nparagaten parasamgate bodhin svaha

 と書く(本当は、一部の母音の上に「-」がついたり、子音の下に「・」がついたりするらしい。ちょいと表記ができないのでお許し願いたい)。
 何のことはない。サンスクリット語の音を漢字にしただけである。漢字しか知らない人々には、意味不明らしい。それも当然である。
 この漢語訳をしたのは玄奘だという。あの孫悟空や沙悟浄、猪八戒を引き連れて、様々な妖怪と戦いながら仏典を中国に持ち帰った三蔵法師である。
 その三蔵法師は、意味を取って翻訳せずに音をそのまま写す理由の第1に、「秘密の故に」と書いているそうだ。あえて意味の分からない言葉にして、呪術性を高める。

 なお、三蔵法師が隠そうとしたこの文章の意味は

 「往き往きて、彼岸に到達せるさとりよ、幸あれ」

 という意味だそうである。念のため。


 仏教とは元々、極めて常識的な教えである、と私は思う。釈迦が説いた八正道とは、

 1)正しく見ること
 2)正しく考えること
 3)正しく言葉を用いること
 4)正しく振る舞うこと
 5)正しく生活すること
 6)正しく努力すること
 7)正しく思念すること
 8)正しく精神統一すること

 
 である(これは、この本から引き写した))。誰が考えてもあたり前のことばかりでだ。お釈迦さんは人は誰でも死ぬのがあたり前だと説いたし、呪術や占いを否定した。お釈迦さんは、常識を持てと説き続けた人であるらしい。
 なのに、三蔵法師は、そこに呪術性という非常識を持ち込んだ。その挙げ句の果てに、訳の分からないお経を、多分自分でも判らないまま唱えてお布施を持っていく、ビジネスとしての葬式仏教が生まれたのだろう。お釈迦さんが想像もしなかった世界である。

 ま、そんなことが沢山学べる本であります。
 学術的な面倒くささを我慢すれば、学ぶことはたくさんあります。

 先ほど亡くなった立川談志さんは、自分で

 立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」

 という戒名をつけていたそうだ。こちらの方が、その辺の生臭坊主に大枚の金を払って戒名をいただくより、はるかに仏の教えに近いと思う私は、変わり者か?

 

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