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 2012年5月16日 バス事故

 もうそろそろ書いてもいいのだと思う。連休初日に群馬県内の関越自動車道で起きた高速バスの事故である。46人が死傷した。

 直接の原因は、バスの運転手が居眠りをしたことである。操縦者が意識を失ったバスは道路左のガードレールに接触し、そのままの勢いで防音壁に突き刺さった。
 こうした事故の起き方からみて、まず責任を問うべきは居眠りをした運転手である。ガードレールと防音壁の間に隙間があった。この隙間がなかったら、ガードレールに接触したバスは、そのまま防音壁に触れながら進み、これほどの惨劇にはならなかったはずだ。道路管理者にも責任の一半はある。

 運転手が運転中に居眠りをするような管理の仕方も問題であろう。このバスの運行に責任がある陸援隊の管理責任は問われて然るべきであるし、事故を起こした運転手が実は個人事業主でバスを4台所有し、陸援隊の名義を借りて白バス営業をしていたことも分かっている。
 警察は、このあたりの刑事責任を問うべく、捜査を続けている。

 直接の原因ははっきりしている。その背景となった労働実態などもかなり分かってきた。いまのところ、事故を巡る状況はその程度である。でも、その程度でいいのか? 運転手の責任、会社の責任を問えば、こんな悲惨な事故が再発することを防ぐことができるのか?


 もう死語に近いかも知れないが、日本で「規制緩和」が流行語になった時代があった。1993年、細川内閣が最重要政策として取り上げ、1996年、橋本内閣は金融の規制緩和に踏み切った。規制緩和さえすればすべてうまくいく、との幻想を振りまいたのは小泉内閣である。
 と書き連ねれば、思い起こしていただけただろうか?

 今回のバス事故は、規制緩和の一つの結果だと私は思う。

 規制が既得権益を生み出している。規制をなくし、その裏で肥え太ってきた奴らを叩きつぶして新しい日本を作る。その方針は、私の記憶によれば広く支持された。その頂点が小泉内閣であった。

 規制を必要最小限に減らし、自由闊達な競争社会を作る。民間に任せることができるものは、可能な限り民間の自由競争に任せる。それが国の経済的繁栄をもたらす。アメリカの繁栄に学ばねばならない。


 なるほど、企業間の競争でものの値段は安くなり、JRをはじめ、民営化された事業体ではサービスがよくなった。規制緩和は成功したかに見えないこともない。
 だが、いいことがあれば悪いこともあるのが世の常であることを、我々は忘れてはいなかったか?

 今回のバス事故を見ていて、唖然とするのはその価格の安さである。金沢からディズニーランドまで3800円。なるほど、規制緩和とは素晴らしいものであるともいえる。
 だが、安さの裏にあるのは限界を超えた競争である。 

 競争が激しくなったからといって、バス車両の価格が下がるわけではない。燃料費は最近、むしろ高騰している。高速道路の料金だって長年据え置きだ。では、激しい価格競争に曝されたバス会社は、何を削って安いバス料金を実現させているのか。
 単純である。ここまで来ると、人件費安全にかける経費しかない。

 人件費を削られれば、運転手は暮らしが成り立たない。ために、無理をしてもハンドルを握る時間を増やし、手取りの給与が下がらないようにする。
 バス会社にしてみれば、運転手2人乗車なんて全くの無駄である。いまは、路線バスから車掌が消えた時代なのだ。ルールで許されているのなら、運転手を1人しかつけないのは理の当然である。

 そういう。無理に無理を重ねた競争が、今回のバス事故を招いた。私はそう思う。

 もちろん、無理をしながら事故を起こさない運転手も沢山いる。だが、だからといって、今回の運転手を

 「お前だけの問題だ」

 と突き放すのはおかしい。
 激しい競争に曝されてハンドルを握る運転手には、みな同じ程度に事故を起こす危険を抱えている。たまたま今回の運転手が不運にも居眠りをしただけで、誰しも同じリスクを抱えている。今のままだと、いつか同じような事故が必ず起きる。


 どこかの報道に、

 この事故の被害者が、運賃の話をしたがらない、

 というのがあった。安さに引かれてこのバスに乗ったことを恥じているというのである。そして、その文章はこう続いた。

 それはおかしい。いくら安かろうとも、運行の安全は確保されるべきなのだ。

 論としては分かる。が、安さの裏にあるものを見ない議論だと、私は思う。安いものには、それなりの理由があるのだ。
 ことわざに、

 安物買いの銭失い

 という。安いには安いだけの理由がある。水が漏る瓶や、穴のあいた長靴、骨が折れた傘なら、どれほど安くても誰も買うまい。だが、目には見えなくても、安いものにはそれだけの訳があるのだというのは先人の知恵である。

 今回は、目に見えないものを水、結果として失ったものがお金ではなかったということではないのか?

 
 無論、事故の犠牲になられた方々を責めているのではない。安いにはそれなりの理由があることを忘れさせてしまった社会のあり方を問いたいのである。

 中国産の食品から、多量の残留農薬や毒物が見つかり、消費者は一時、中国食品離れを起こした。その中国では、お金がある人たちは中国産ではなく、日本製の食品を求めるという。確かに高いが、安全で美味しいか、というのが理由だそうだ。

 安全にも、美味しさにも、それなりのコストがかかるのである。安い物を買って一時的には満足しても、それで結果的に銭を失うぐらいならまだしも、命まで失っては元も子もないではないか?

 安いものはまず疑おう。疑って、安さの原因を調べて、それで納得できてからお金を出そう。
 規制緩和で、国は国民の安全を守ってくれる存在ではなくなった。自分の安全は自分で守らなければならない時代なのである。

 

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