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 2012年9月5日 ヴェネチア

 といっても、ヴェネチアに行ったときのことを書こうというのではない。そもそも私は、ヴェネチアなどというところに行ったことがない。書きたくても書けない。

 だから、ヴェネチアに旅行する計画を立てた、というわけでもない。そりゃあ、行く機会があれば行くだろうけど。そもそも私には、旅行衝動なるものが存在しない。ある町に、3日や1週間滞在したところで、何がわかるものか。
 手に入るのは、ただ

 「行った!」

 という個人的満足感だけではないか。そんなつまらないものが欲しくて、フランスパンをかじりながら異国の地を貧乏旅行する人々の気が知れぬ。

 町には、人と同じように、他人に見せたい姿もあれば、できれば他人の目から隠しておきたいところもある。そんなところまで、できるだけ隅から隅まで見てみなければ、その町の評価は下せないものである。3日や1週間の滞在では、向こうが見せたいと思っているから旅行案内に乗っているところの数分の1を駆け足で回る事しかできない。そんなことをして何になる?

 そりゃあ、一目で女に惚れることもある。だが、一目惚れした女と、やっとの思いでデートにこぎ着け、食事をしながら話したら、

 「何だ、こいつ? おれ、こんな女をいいと思ったのか?」

 と後悔したことはないか?
 最初は一目惚れでもいい。でも長く付き合うには、付き合いながら新しいことを次々と知り、その一つ一つに新しい魅力を見いださなければならないのではないか?

 という意味で、旅行なんてのは、見た目のいい女を次々ととっかえひっかえするどうしようもない男の生き方(最近、女性にもこのような生き方をする種族が生まれているというが……)でしかない。


 いや、詰まらぬことを書いてしまった。今日のテーマはヴェネチアだが、後ろにもう少し言葉がつながる。ヴェネチア国際映画祭、である。

 我が家にはすでに、3000本前後の映画が保管されている。もっぱら楽しんでいるのは妻女殿で、私は録画兼整理係に過ぎない。
 このような中で、楽しんでいればすむ方は、感性も傲慢なものになっていく。

 「え、あの映画? 見ようと思ったけど、最初の10分で『あ、これ、つまらない』と思ったからやめた。最近、いい映画がないわ」

 と私に言われたって仕方がないではないか? 私は番組表を見ながら、良さそうな映画を録画するだけの存在である。そもそも妻女殿は、どの映画を録画するかの選択もされない。選択し、録画し、ディスクに焼き、保管するために画像とタイトル、最小限のデータをディスクにプリントし、エクセルで整理する。これ、すべて私の仕事なのである。なのに、そのおっしゃりよう、私の仕事を全否定するものであるとの自覚が、妻女殿にあるのであろうか。そもそも……。

 いや、時ならず興奮した。日頃の鬱憤をぶちまけただけである。ご放念ありたい。

 話を元に戻す。
 先月、WOWOWがヴェネチア国際映画祭受賞作を特集した。それを録画予約しながら思ったのである。

 「アカデミー賞は整理した。カンヌ、ベルリンも整理がすんだ。でもヴェネチアはまだだったな」

 かくして、先の土曜日からヴェネチア国際映画祭の受賞作をファイリングし、我が家にある受賞作品をまとめた。日本で手に入りそうな作品は383本。うち、80本ほどが我が家にあった。映画収集を始めて10年少々としては大出来というところだろう。
 ちなみに、我が家にあるアカデミー賞受賞作は436本、ベルリンは100本前後、カンヌは60本前後である。大変なコレクションになった。

 で、ヴェネチアだ。ヴェネチアは、塩野七生さんが書いた「海の都の物語」(これは、大変に面白い本です。ページをめくるたびに知的刺激を受けます。まだお読みでない方は是非手にとっていただきたい!)を読んだという程度の付き合いしかない。
 しかし、ヴェネチアである。整理がすんだのを機に、受賞作を鑑賞した。

 「レバノン」

 2009年のイスラエル・フランス・イギリス合作である。監督はサミュエル・マオズ。
 舞台は、1982年のイスラエルによるレバノン侵攻。攻め入る側の一部となった戦車の中から見た戦争がリアルに描かれる。
 息が詰まるほど狭い部屋。兵士たちはここで食事をし、排尿もする。外の世界は、スコープに映し出される映像と、無線ではいる音声だけ。
 敵を殺す恐怖。敵に殺される恐怖。敵を殺さねば殺される恐怖。局限された画面の中で、だが、戦争の生の姿が描かれる。
 最高賞である金獅子賞を受けるもの頷ける映画だ。

 昨夜見たのは
 
 「レスラー」

 2008年の金獅子賞。ダーレン・アロノフスキー監督の下、ミッキー・ロークが落ちぶれたプロレスラーを演じる。
 アカデミー賞の作品賞を受けた「ロッキー」の対極にある世界だ。「ロッキー」には救いがあった。救いに至る努力があった。努力すれば必ず報われるという希望があった。
 が、「レスラー」には、なにもない

 ミッキー・ロークが演じるランディはかつて、プロレスのスターだった。試合の大半は攻めに攻められ、くたばる寸前までいく。でも、最後の最後で気を取り直し、怒りを持って復讐し、相手をたたきのめす。
 そう、日本でいえば力道山だ。ブラッシーとの血戦、ルー・テーズとの死闘(若い読者へ。ごめん。私はそのような世代なのです)はいまだに記憶に新しい。
 リングのヒーローだった。

 プロレスとは、八百長と行って失礼なら、ま、舞台演劇の世界である。あらかじめ決められたシナリオがあり、ヒーローも悪役も自らの仕事をして観客を沸かす。ショーである。
 悲しいのは、若いときのヒーローは、年老いてもヒーロー役を求められることだ。体がたるんでも、皺が寄っても、関節が痛んでも、ヒーローはヒーローでなければならない。
 しかも、若いヒーローには多くのファンがつくが、年老いたヒーローからはファンが離れていく。

 ランディはもう、プロレス興業だけでは食えない。金がないから、トレーラーハウスに住んでいるのだが、その家賃もなかなか払えない。スーパーでアルバイトをしながら暮らしを立てる。だが、リングで受ける喝采を忘れることはできない。
 そんな男だから、かつては妻がいたらしいが、先に死んだのか、愛想を尽かして出ていったのか、いまは独り者だ。娘が一人いるが、相手にしてもらえない。

 そんな男にも恋はある。相手はストリッパーである。厳つい体でおずおずと迫るが、なかなか受け入れてもらえない。
 さあ、どう生きる?

 ある日ランディは昏倒する。心臓がいかれていた。バイパス手術をして命は取り留めるが、医者に宣言される。

 「リングに立つ? とんでもない。あんた、死にかけたんですぞ!」

 ストリッパーのアドバイスで、ランディは娘との関係修復を図る。途中まではうまくいき、娘と食事の約束をする。

 「やっと俺も人並みのオヤジになれる」

 ランディがそう思ったかどうかはわからないが、晩年のランディはどこまでもつきに見放されていた。惹かれていたストリッパーに迫って拒絶され、やけになって酒を飲み、酒場で拾った女と夜を過ごすうち、娘との約束を失念した。レストランで2時間も待ったという娘には

 「2度と顔を見せないで!」

 と絶縁されてしまう。
 恋も娘も失った。心臓疾患で、一度はプロレスを諦めたはずのランディは、プロモーターに電話をかける。

 「ほら、あの、昔のタイトルマッチの再戦というやつ、俺、やるわ」

 こうしてランディは、再びリングに立つ。ここしか自分の生きるところはない。ここしか自分がいきられる場所はない。

 試合が始まる。心臓が悲鳴をあげる。対戦相手からも

 「大丈夫か? そろそろフィニッシュに入った方がよくはないか?」

 と気を使われる。
 が、観衆は無慈悲だ。かつてにヒーローには、いまでもヒーローを求める。求められたランディはふらつく足でロープの上に立つ。ここから敵に体の上に飛び降り、そのままフォールに持ち込むのが、ランディのゴールデンパターンなのである。

 胸まで伸びた長い金髪をかきあげ、ランディはロープの上に仁王立ちした。足の震えも何とか止めた。館内の興奮が頂点に達した。

 「行け! ランディ!!」

 声に押されるようにランディはロープを蹴って飛んだ……。

 救いのない人生。華やかな過去があった分だけ、晩年は暗くなる。
 涙が流れる男の最後である。


 いや、ヴェネチアは実にいい映画を選ぶ。ベルリンもカンヌも、どちらかといえば頭でっかちの世界。映画としてのおもしろみはほとんどない作品が、受賞作をして顔を揃える・

 「どう? 面白い映画なんて下らないんだよ。映画って、あんたたちにたやすく理解されるような安っぽいものじゃなくてよ」

 とでもいうのだろうか。
 映画とは大衆芸術である。大衆に理解されなくて、何が映画か。

 と思う私は、昨夜からヴェネチアのファンになった。
 こんな映画を選ぶ町には、機会さえあれば、一度足を運んでみたいものである。

 ねえ、そこの美しいお嬢さん、私とヴェネチアに行かない?

 

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