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 2013年9月29日 野望達成か?

 いま、私の後ろでサザンオールスターズが歌っている。
 といっても、生ではないのはもちろんだ。22日、WOWOWで放映した

 サザンオールスターズ SUPER SUMMER LIVE 2013 「灼熱のマンピー!! G・スポット解禁!!

 この日、宮城スタジアムで行われたライブの生中継で、それをブルーレイディスクに録画したものだ。
 しかし、マンピーって何よ? G・スポット解禁って、どういうこと? 町中でいい女を見繕って、あそこに指を突っ込んでG・スポットを愛撫していいってか?
 こいつらのやることなすこと、それにいうこと、書くこと、ことごとく理解不可能なのはどうしたことだろう? それを、わが長女一家がこよなく愛するのはどうしてだろう?

 ということを書くために稿を起こしたのではない。

 そもそも、私はこのグループには全く関心がない。どの曲を聴いても同じ曲にしか聞こえない、というのは極端だが、曲想が極めて似通っているため、曲間の区別をつけるのが難しい。だから新曲を聴いても

 「ああ、懐かしい。いい曲!」

 とファンは感涙を流す。サザンとは永遠のマンネリグループであると断じてはばかることがない私である。

 では、何ゆえにサザンが歌っているのか?

 実は、コピーガードのかかったディスクのコピーを試みているのである。
 視聴者に問い合わせることもなく、コピー制限を施して放送を続ける日本のテレビ局に一泡吹かすべく、

 「そんなことしても無駄だぜ」

 と思い知らせねばならぬ。
 などとたいそうな意図を持っているわけではない。だが、実際困るのだ、このコピー制限というヤツ。おかげで大量のデジタルビデオテープを抱え込む羽目に落ち込んだ私は、一日も早くすべてのテープを処分すべく、独自の取り組みを繰り返したことは、折に触れて日誌で書いた。
 最終的に、そのコピー制限を外せる機器が、東京のSさんのご助力もあって集まったということも書いた。それがうまく動かないと嘆いたのも、つい先日のことである。

 それが、いま、動いている。モニターに使っているテレビでサザンオールスターズが歌っていて、レコーダーの録画灯が点灯している。多分、いま録画が進んでいるはずである。

 ふっ、ふっ。これで長年の夢が叶う。テープがディスクになる。ちょいとワクワクしている私である。もくろみ通り録画が出来ていれば、明日からはコピー作業に追われるはずだ。あのClaptonThe Beatlesも、マーティン・スコセッシののブルースシリーズも、おばあちゃんの家も、火垂るの墓もエニイ・ギブン・サンデーも、すべてブルーレイプレーヤーで鑑賞できる。

 おっと、コピーが終わった。レコーダーのハードディスクに入っているはずのヤツを……、お、見事に再生できるではないか! コピー成功である。
 さあ、これから忙しくなるぞ!



 東京新聞とは左翼臭が紛々とする新聞である。権力のあり方に常に厳しい目を向け、記事として読者に訴えかける。福島原発についても、最も厳しい視線を浴びせるメディアである。
 私は、嫌いではない。あえていえば、左翼にあるまじき観念論の臭いがすることである。うん、この表現は分かり難いな。要は、不勉強を顧みて恥じないから左翼をやっていられる新聞である。権力者にいちゃもんをつければいいと開き直っているのであろう、その立論の根拠がいつも危うい。 不勉強が転がり出て来る危うさである。

 「いや、もう少し事実をきちんと学べば、そんなことはいえないし、そんな批判は出来ないと思うのだけど」

 という記事が頻発する。
 まあ、それも学生時代の私とかぶらぬでもない。現実を、事実を知らないから批判が出来、左翼風を吹かせることができた。当時の私はそうだった。齢を重ねて世の成り立ちを学ぶにつれ、よくもあんな批判が出来たものだと、別に顔を赤らめたりはしないが、若気の至りに思いをいたさないわけでもない。

 ところが、商業誌であるはずの東京新聞は、どうも学生時代の私が取材をし、編集をしているような紙面である。それが心地よいという読者もあるだろう。それを否定する気はない。うん、そういうものだと割り切れば、そのような取材、編集もありである。なにしろ、その割り切りぶりが心地よい。「こちら特報部」という紙面など、その典型である。
 困ったことに、私はいまでもこの面が好きなのだ。学生時代からどれだけ成長したのか、私。

 なのに、である。
 今朝の東京新聞にはがっかりした。というか、新聞とは所詮その程度のものか、と改めて思い知らされた。

 「54年ぶり東京国体開幕 五輪へ懸け橋」

 という1面の記事に始まって、東京国体、というか東京オリンピック万々歳の記事のオンパレードである。

 おいおい、昨日のNHKニュースで見たけど、あの東京国体の開会式、何をトチ狂ってこんなにど派手にするんだ! ってな代物だったよな。見ながら私は、

 「たかが国体。たいした選手が出るわけじゃない。いや、たいした選手が出たって、たっかが国体じゃないか。それなのに、なに、このど派手さ!」

 とのけぞり、

 「ああ、何という税金の無駄! まあ、俺、東京都民じゃないから俺は一文も払ってないからいいけど」

 とあざ笑ったものだ。
 それが左翼の作法だろ? おい、東京新聞、お前、不勉強なのは分かるけど、もう少し学べよといいたくもなるけど、だけど、本当に左翼を志しているのかね?

 と書きながら、実はそれは無理な注文であることも重々承知している私である。だから安堂は嫌らしいといわれるのかもしれないが。

 まだ若いころ、知人の間では

 「北海道新聞というのは立派な新聞だ」

 というのが定説であった。何しろ遠い北海道である。そんな新聞、目にしたこともなかったが、何でも、中央政権に楯突くこと、あの朝日新聞の遥かに先にあるというから、

 「ああ、なるほど。朝日新聞とは、ブル新(ブルジョア新聞=資本主義体制の存続を己の存続の基盤としている新聞)の中では、最も左寄り、つまり自民党政権に厳しい新聞だといわれているが、その上を行く新聞が地方の土壌に根付いているのか」

 と、まだ見ぬ北海道という土地の思想的正しさに、憧れにも似た思いを持った。北海道で待つ多くの美女たちにそれ以上の憧れを持ったことはいうまでもない。

 それが、30代半ばにして札幌に転勤した。あの憧れの北海道新聞の本社が存在する都市である。それ以上に憧れた北海道美人の棲息する町である。

 まあ、札幌美人に関しては、事実を淡々と書けば差し障りもあろう。よって、今回は触れない。
 で、北海道新聞である。

 がっかりした。

 まあ、東京にある日本政府に対しては一定のスタンスを保ち、鋭い視線を注いでいることは確かである。だが、足元の北海道庁については、グズグズなのだ。馴れ合っているといっても言い過ぎではない。メディアの奢り、これに過ぎたものはない。

 日本政府に対してきちんとした批判が出来る新聞が、たかが道庁に対して、何故に腰砕けになるのか。あれこれ考えてみた。ああ、そうか、と思った。

 批判をするには、ある距離が必要なのである。近すぎては批判など出来ない。
 北海道新聞は、東京から遥かに離れた土地に本社を置き、本州とは海で隔てられた島の中に読者=経営基盤を持つ。距離的に離れ、経営としても離れている。いってみれば、批判したって、しっぺ返しを受けにくいところにいるから、平気で批判が出来るる。
 翻って道庁。これは、同じ釜の飯を食う仲間である。いいことも悪いことも分かち合わねばならぬ。道庁に向けた批判の矢は、己にも飛んできかねない。であれば、批判などよして一緒に酒を飲み、酔いしれるしかないではないか?

 勢い余って戯画化してしまったが、批判という行為が、一定の距離を保っていなければ出来ないのは、あらゆるところに通じる鉄則である、と私は考える。

 で、東京新聞だ。
 とにかく、東京新聞なのだ。東京都庁は余りに近すぎる存在であり、批判できる距離の内側にあるのだ。同じ東京に霞ヶ関があり、永田町もあるが、これは東京新聞からすれば遠いところにある中央政府である。だから、歯に衣着せずにもの申すことが出来る。なのに、新宿にある都庁は、東京新聞に属する人々の気持ちの上では、やっぱり身内なのである。

 つまり、東京新聞とは、東京という田舎の地方紙である。絶対に全国紙にはなれない。

 今朝の東京新聞を見ただけで、これだけのことを考えてしまった。私、物事を考えすぎてしまうたちだろうか?

 

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