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 2014年8月23日 緑内障

 「いやっ、安堂ちゃん、元気?」

 突然、私のiPhoneに電話がかかってきたのは、昨日の午前10時前だった。私は、前橋・けやきウォークの駐車場に止めた車の中で読書中だった。昨日は我が妻殿の定期検診日で、朝8時半過ぎに専属運転手となり、妻殿を前橋日赤にお送りして、お迎えまでの時間をつぶすのにここに来た。
 来たのはいいのだが、時間が早すぎてまだ開店前。やむなく、直射日光の当たらないビル陰に駐車し、エンジンを切って窓を全開にし、汗を流しながらケイ・スカーペッタのお話に魂を奪われていたのである。
 うん、ケイ・スカーペッタという主人公だけでどの本か想像できたあなたは、正真正銘のミステリーファンですな。

 ま、それはいいとして。

 聞き覚えのある声は、東京のSさんだった。
 東京で仕事をしていたころに大変お世話になった、大銀行の元常務さんである。
 であると同時に、極めつけのクラシック音楽マニアで、だからオーディオファンでもある。仕事で酒を飲んだついでに、

 「クリスキットって、本当に音がいいんだから」

 と話したら、それから数年たって突然

 「古い話で申し訳ないが、クリスキットっていったっけ。あれ、本当に音がいいの?」

 と電話が来たので、

 「自分の耳で確かめてみたら?」

 と横浜の我が家に誘い、クリスキットの世界に引きずり込んだ。
 結局、メインシステムとしてマルチアンプ(プリアンプから出た音楽信号をチャンネル・デバイダーで高域と低域に分け、それぞれをパワーアンプで増幅してスピーカーを鳴らすすシステム)と、サブシステムとしてプリ+パワーのシステムをお買い上げになった。

 「いや、自分で半田ごてを持ってもいいんだけどね……」

 と歯切れが悪いので

 「任せて。俺が作るから」

 とプリアンプを2台、パワーアンプを3台、チャンネルデバイダーを1台、勢いでマルチセルラーホーンまでつくって差し上げた。それぞれがどのようなもので、作成にどのような苦労が伴うかは、「音らかす」をお読みいただきたい。
 無論、すべて組み立て料ただ、の友だち関係である。たしか、蒲田か大井町かの日本料理屋で一席御馳走になった。

 そのSさんからの、数年ぶりの電話である。

 「いや、君に電話をするのはクリスキットの時だけで申し訳ないと思って、なかなか電話しにくかったんだけどね」

 それでも電話をしてきたということは、相当に困っているわけだ。

 「パワーアンプの1台が、左から音が出なくなってね。うん。それで、スピーカーを右と左つなぎ替えてみたんだけど、やっぱり、左の出力につないだ方から音が出ないんだ。どこか接続がおかしくなったのか……」

 いや、私の作ったアンプである。半田付けしたところは力をこめて引っ張り、きちんとくっついているかどうか確かめてある。自分で改造を試みたなどの特別な事情がない限り、接続不良になるはずはない。
 いや、待てよ。スピーカーターミナル(スピーカーコードをつなぐところ)は案外安物だから、あそこが悪くなったか?

 「接続がおかしくなったって、裏蓋を開けて見てみましたか?」

 というのは、当然のアドバイスである。ところが、おかしな返事が戻ってきた。

 「いや、その、見れないんだ。どうして見れないかは後で説明するけどね。だからさ、君に直してもらえないかと思ってさ」

 えーっ! 見ることができない。あんた、ほんとに改造に取り組んでおかしくしちゃったの? でも、どんな改造をしたら中が見られなくなる?

 「いや、それはいいですけど、接続の具合が見られない……。あ、そうだ。これ、多分、スピーカー保護ヒューズですよ。ヒューズが飛んだのが原因である確率が90%を超えています。ヒューズを点検してください。そうすれば、わざわざ金を使って私のところに送らなくても」

 「そのう、だったらちゃんと説明するが、実は緑内障になっちゃってね。目がほとんど見えないんだ。だから、接続の具合も見られないし、ヒューズが何処にあるかも分からない。在処が分かっても、ヒューズが飛んでるかどうか確かめようがないんだわ」

 「緑内障? 目が見えない? そんな……」

 「いや、アンプの調子が悪くなったのは1年半ぐらい前でさ、その後こんなになっちゃって。でね、歌舞伎も見られない。映画もだめ。読書なんて、となるとほら、ますます音の世界にしか楽しみがなくなる分けよ。いや、目が見えないといってもね、かあちゃんに俺の目の代わりをしてもらえば何処にでも行けるの。だからN響のコンサートなんてよく出かけるんだけど、でも、いつもやってるわけじゃない。だから、自宅のクリスキットで埋め合わせたいんだが、こいつが不調となると、人生、寂しくてね」

 「分かりました。僕がやりますから、すぐに送ってください。それにしても、緑内障なんて、ねえ」

 「いや、この病気はド近眼だとなりやすいんだってさ。ほら、俺なんか、牛乳瓶の底みたいな分厚いレンズの眼鏡がないと暮らせなかったろ。だから、危険性は高いと言われてたんだけど、とうとうなっちゃった、てなわけさ。ハッハッハ


 いや、あの、ハッハッハ、って。あなた、目がほとんど見えないんでしょ。それで、その明るさ、って……。

 「だからね、ほら、君が桐生まで鰻を食いに来いって誘ってくれてるけど、なかなか行けなくてね。いや、行きたいんだ、ほんと。黄身と酒も飲みたいし」

 「でも、奥さんと一緒なら動けるんですよね。だったら、2人で来て下さいよ」

 「分かった。考えておく。でも、アンプ、よろしくね」

 
事情は分かった。しかし、であれば唯一残された楽しみの世界を広げてあげtなければならないのではないか?

 「はい、それは任せて下さい。ところで、ですが。ネットワークオーディオって知ってます?」

 「聞いたことはあるが……」

 「私、いまはまってましてね。いや、ギョッとするほど音がよくなるんです。CDからパソコンを使って音楽データをリッピングし、それを再生するんだけど、こんなにいい音があのCDに入ってた? という感じで、とにかく、音の密度、精細度、艶、奥行きなどどれをとっても数段階上がるんですわ」

 「君、君がそんなこといったら困るじゃないか。ありえないだろう、そんなこと。CDに入っているのもデジタルデータだぜ。再生するということは、それをアナログ信号に戻して増幅するんだよな。同じ事はCDプレーヤーがやってるわけだ。もともとCDに入ってる音楽データで、同じデータを他の手段で再生すると音がよくなるなんて、原理的にありえないじゃないか」

 「いやだな。それ、俺が初めて薦められたときに示した反応と全く同じなんですよ。原理的な話は時間がかかるからいまはしませんが、音がよくなることは僕が保証します」

 「ほんとかね。どうしても信じられないが」

 「だったらね、自分の耳で聞くのが一番いい。ね、桐生に来ることがあったら、いつも聞いてるCDを何枚か持ってきて下さい。それを私がリッピングして聞かせますから。ね、自分の耳で聞くのが一番手っ取り早いでしょ?」

 「わかった。じゃあ、行くときは持っていくわ。でも、信じがたいなあ」


 今日、そのアンプが着いた。まだ箱を開けていないので、何処が悪いか不明である。多分、ヒューズである。

 その箱に、手紙が添えられていた。

 「冠省、残暑御見舞申し上げます。久方ぶりに大兄のお元気なお声を聞き愉快でした。此度は又、アンプのことで、ごやっかいをおかけします。何卒よろしく御願い申し上げます。機を見て、一杯やりましょう」

 うん、この文面だと、ネットワークオーディオに関心を持ったと見た。涼しくなったころ、本当に桐生に来ると見た。歓迎せねばならぬ。

 が、だ。この人、強い
 視力を失えば、まあ、私ならへたり込む。だって、私が楽しんでいる読書も映画も高校入試の数学も、目が見えなくなったら楽しみようがない。愛しのBMWの運転だってできない。公共交通機関で

 「おっ、いい女だよ、あれ。あのきっとした目。ゾクゾクするね。唇もぽっちゃりして色っぽい。うん、好みですよ、私の。でも、向こうも私に一目惚れしてたらどうする? 突然迫られたりしてさ。あの娘の顔がぐーっとこちらに近づいてきたとき、『私、妻子ばかりでなく、孫もおりましてねえ。あなたのお気持ちに沿いたいのは山々なんだけれども。いや、いけないって。ほら、離れなさい。そんなにすがりつかれると、私の理性も吹っ飛んじゃうじゃないか』って。決然としてはねつけられるかな?(無理無理! という野次が聞こえる気がする:うん、私も無理だと思う)

 なんて、絶対にありえないことを夢想して楽しむこともできない。

 それなのに、失った機能は綺麗さっぱり諦めて、自分に残された機能で人生を楽しもうとする。
 Sさん、器が大きいなあ。仕事でも沢山学ばせてもらったが、人間としても学ぶべきところを沢山お持ちの方である。

 Sさんに「大兄」と呼んでいただけるしあわせを噛みしめながら、酒を酌み交わす日を楽しみに、さて、パワーアンプの修理に取り組むか。

 

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