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 2015年5月26日 抵抗勢力

 「何か、私が旦那を尻に敷いてるようだけど、って電話をもらったんだけど」

 お昼頃、妻女殿が突然話し始めた。

 「そんなことないでしょ。だから、そんなこと書くの、やめてくれる!?」

 最初は何のことかと思った。話を聞くうちに、いつものように

 「ああ、つまらん話だ」

 と理解した。

 友人と電話で話したらしい。その友人は我が妻女殿から「らかす」を紹介され、以来、愛読者となっていただいた方である。最近も、ちょくちょくアクセスしていただいているらしい。
 ありがとうございます。

 というご挨拶は別として、その彼女が電話で言ったらしい。

 「読ませていただいているんだけど、あなた、ご主人を尻に敷いている? 『らかす』を読んでると、そんな感じがするんだけど」

 文章というものは、一旦公開されれば筆者の手を離れるものである。どのような読み方をしようと、どのような解釈をしようと、あとは読者の勝手である。だから、どんな印象を持たれようと、私の関知するところではない。という程度の覚悟がなければ、文章は公開できない。

 とはいいながら、だ。そのような印象を持たれる方がいらっしゃったということは、我が文章の拙さの表れであることは疑いない。
 どこが、どういけなかったのか?

 そういえば、私はしばらく前、妻を登場させるときの表現を変えた。抗議を受けたからだ。

 「私のこと、ずっと『愚妻』って書いてるわよね。なんかバカにされてるようで腹が立つ。やめてくれる?」

 いや、「愚妻」とは、己の妻を人様に指し示すときに使う謙譲表現である。複雑な敬語の体系が、日本語の美しさ、奥深さを支えている。それを、文字通りにしか受け取れないか? 大学まで進んで何を勉強してきた? 愚か者め!

 いいたいことは多々あった。が、だ。いって通じる相手と、通じない相手がいることは、長年生きておれば知識のうちである。
 私は黙って引き下がった。そして、表現を変えた。

 「我が妻女殿」

 文章上に妻を登場させるとき、「妻」と書いたのではあまりに芸がない。面白みがない。この事実はご理解いただけよう。私は、学術レポートを書いているのではない。fun to readな文章を書いているつもりである。
 だからといって「妻殿」としてしまえば、私は藤田まことになってしまう。必殺仕置人の中村主水は、確か女房を「妻殿」と呼んでいたよね?

 そこで私は考えた。行き着いたのが

 「我が妻女殿」

 であった。


 皆様は、長めの文章をどの程度の頻度でお書きであろうか?
 お書きになれば分かっていただけると思うが、文章とは、その中で使う言葉に、意外に縛られるものである。
 「愚妻」と謙譲表現を使って世間と対峙すれば、夫婦の力関係を普通に表現できる。
 だが、「我が妻殿」と書けば、私は妻と同一地平には立てない。どうしても私の方が1段か2段下にいなければつじつまが合わなくなる。

 「今日は妻の定期検診日で、朝から2人で前橋日赤に行った」

 と書けば普通の文章である。普通だから、面白くもおかしくもない。
 ここに、「我が妻殿」を使えば、

 「今日は我が妻殿の定期検診日であった。私は朝から
ご下命を待ち、専属運転手として前橋日赤までお送りした。診察が終わるまでお待ち申し上げ、桐生までご案内させていただいたことはいうまでもない」

 となる。
 2つの文章は
同じ事を叙述している。違いは、「妻」という言葉に縛られるか、「我が妻女殿」にがんじがらめになるか、だけである。

 で、我ら二人の実態はどうか。
 私は、
亭主関白を自認している。
 「我が妻女殿」には
別の見解もあろう。
 人と人との関係とは、お互いの思い込みの上にしか存在しないものであってみれば、その違いはあって当然、修正する必要は全くない、と私は考えるものである。

 で、だ。
 本日以降、「我が妻女殿」が登場する「らかす」は、以上のような知識を前提としてお読みいただくよう御願いする。読んで

 「この人たち、本当はいったいどうなってるの?」

 と思いを巡らせるのも、「らかす」に時間を費やしていただく楽しみの1つである、と固く信じる私である。



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