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 2015年6月7日 葬儀

 桐生市の友、O氏のお母さんが亡くなった。3日のことだ。
 その日のうちにO氏から連絡があった。そういえば、亡くなったお母さんには10日ほど前にあったばかりだった。痴呆が進んだというわが母をどうするか考えていてO氏に相談すると、

 「うちのお袋が入っている介護施設、見てみる?」

 と、彼のお母さんが入所している施設に連れて行ってくれた。
 お目にかかってみると、私の母以上に痴呆が進んでおり、私がお尋ねしたこともひょっとしたらまったく記憶には残っていないかも知れないが、悪いことに、私の方はまだそこまで惚けてはいない。記憶に鮮明に焼き付いている。

 「そう、あの時はまだ元気そうだったのにね。でも、大往生だわ」

 91歳。最後は灰に炎症が出たのだという。

 「でね、5日にお通夜をやって、6日が葬儀なの」

 といわれて、どちらに参列した方がいいか聞いた。

 「両方おいでよ。ほら、安堂さんも練習になるから」

 いや、ちょっと待て。俺はまだ死ぬには早かろう? それに、俺の葬儀が行われるときには俺は死んでるわけだから、練習したって始まるまい。

 「そうじゃなくて、あなたのお母さんだっていずれはこうなるからさ」

 ま、そりゃあそうだ。

 というわけで、両日出ることにした。親族でも遠縁でもなく、お母さんとは親しく話したこともないのに、通夜と葬儀は出しゃばりすぎだろうと思わぬでもなかったが、他ならぬO氏の誘いである。断ることはない。

 というわけで、2日続けて喪服を着用、久しぶりにネクタイもぶら下げて(もちろん、喪服もネクタイも2日とも同じものである)参列した。
 桐生に赴任して以来、何があろうとカジュアルを通してきた私である。会場の市営斎場で出会った知り合いたちは、何となく初物を見たという顔をしていた。あまりにも喪服が似合っていたせいだろうか? そこに新たな私の魅力でも見いだしたか?

 しかし、だ。
 桐生での葬儀は実に捌けている。心地よいほどだ。
 まず、坊主のお経が短い。全国各地の葬儀に通じているわけではないが、わが故郷では、通夜でも葬儀でも、まず坊主が20分から30分、訳のわからぬ呪文(あれをお経というのだそうだ)を唱えることから始まる。畳に座らねばならぬ会場だと悲惨である。いざ自分の焼香の番が回って来るころには足がすっかり痺れている。

 ところが、ここ桐生では、両日とも、坊主のお経は3分前後で終わった。多分、5分はかかっていまい。通夜が始まった、葬儀が始まったと思う間もなく、

 「では、ご焼香を」

 となる。それも、6列でさばくから、瞬く間に焼香も終わる。午後6時半から始まったお通夜では数百人の参列者があったのに、7時を過ぎると「精進落とし」の会食が始まった。えらいスピードだ。

 6日の葬儀では、坊主が2人現れた。そして、うち一人は年若き乙女であった。

 「ん? 仏教って、男女同権だっけ? 確か、女は不浄の者じゃなかったっけ?」

 その女性の先導で入ってきた二人は、やがて並んで座ってお経を唱え始めた。いや、これがまた見事なデュエットなのである。あるところは男声と女声のユニゾンで、またある場所は和風のハーモニーで、朗々とお経をやるのだ。

 「はあ、やっぱり声明って音楽なんだなあ」

 と思っていると、
 
 ジャーン、シャラシャラシャラシャラ。

 時ならぬシンバルの音が響き渡った。見ると、女性が両手にシンバルを持ち、打ち合わせている。打ち合わせるだけでなく、その直後に右と左のシンバルを軽く触れあわせているので

 シャラシャラシャラシャラ

 という余韻がつく。

 それが途切れたと思うと、再び

 ジャーン、ジャジャジャジャジャジャ。

 それが10数回繰り返されたろうか。
 実に変わった葬儀である。O氏、何宗なのだろう?

 葬儀が終わると、その場で初七日。手間を省くのが当世流らしい。

 で、この市営斎場、火葬場も併設されている。初七日が終わると、遺体はしずしずと斎場内を進み、まもなく火葬炉にはいる。すると、遺族や関係者は待合室に移動する。ここには御茶、ビール、お菓子が用意されており、退屈せずに待てる。

 「わが故郷、大牟田の焼き場は何にもなくて、タバコを吹かしながら時間をつぶすのがせいぜいだったな」

 という記憶を持つ私からすると、桐生市の斎場は葬儀に関するワンストップサービスの最先端である。建物の構造も合理的で、遺族、関係者の導線が見事にできている。設計者は知恵を絞ったのではないか。

 そうそう、もうひとつ

 「ははあ」

 と思ったことがある。
 通夜でも葬儀でも、O氏の結婚した娘さんが遺族席に座っていなかった。息子さんは座っていたのだから、これは明らかなな区別である。
 亡くなったのは、この娘さんからすればおばあちゃんである。だが、多分嫁に行って他家の者となったということなのだろう。彼女は親族席に座っていた。

 封建的といわれる九州で生まれ育った私だが、

 「そうかな?」

 と思う。
 例えば私の母が身罷ったとしよう。その時、私の娘たちは遺族席に座らないか? そんなことをいってくる訳知り顔がいたら私は怒鳴り飛ばし、旦那と一緒に遺族席に座らせると思う。
 しかし、これがこの地方の常識なのだろう。そういえば群馬県は、いまだに公立の男子校、女子校がある。かかあ天下が上州名物といわる群馬でのこの現実をどう解釈したらいいものか?

 ま、それでも、一方では、女性の坊主も登場している。いずれこの風習も変わるはずである。

 で、滞りなく葬儀が終わると、次は場所を変えて本格的な精進落としだ。刺身を頬ばり、大量に般若湯をいただいて、なんと誘われて2次会にまで顔を出して帰宅した私であった。

 やっぱり、ちょいと出しゃばりすぎか?

 しかし、だ。
 お母さんの具合が悪くなったあと、O氏は毎日施設を訪れていたそうだ。なかなかできないことである。彼と一緒に訪問したとき、訪問者の名前を記入するノートが入り口に置いてあったが、記入はほとんどなかった。施設に預け入れると、あとは放りっぱなし、という心ない人たちが沢山いるらしい。

 「で、最期には間に合ったの?」

 とO氏に聞くと、

 「いやあ、連絡を受けてすぎに飛んでいったんだけど、間に合わないわね」

 あれも人生、これも人生。お母さんは、そんなことは気にすまい。人間、生まれるときも死ぬときもひとりぽっちなのだ。

 ともあれ、近々、O氏を慰労せずばなるまい。
 お疲れ様でした。



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