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 2015年12月17日 家族、というもの

 されば、でござる、各々方。
 皆様がそれぞれご判断され、吉良邸への討ち入りにご賛同されるか否かをおはかりする場では、ここはない。それはそれぞれの御心のうちで思案されればよい。去る者は追わず。我々と行動を共にされずとも、お恨みする筋はござらぬ。

 しかれども、各々方。皆様は昨今の家族制度にまつわる動きをいかがご覧(ろう)じる? 我が目には、

 「ああ、家族というものが、ゆっくりと、しかし確実に壊れてゆく時代に我々は生きておるのだなあ」

 という思いが、しきりと繰り返されるのでござる。

 思い返せば、拙者が札幌に赴任するいくらか前のことであったと存ずるが、世に

 コインロッカーベビー

 なるものが登場いたした。
 いくらかの快感を味わったあと、不幸にもその結果として予期せぬ出産をしてしまった連中が、嬰児をコインロッカーに押し込んで放置した。奇怪な事件を、新聞屋、テレビ屋が追いかけ、しつこいほどに、虚実取り混ぜた情報なるものを垂れ流しておった、と記憶いたしてござる。
 が、拙者の中には、1つの事実しか見えておらなんだ。

 「おお、世に言う母性本能とは、実は本能ではなく、母親が自分の子を愛せなくては世が壊れ果てる故、母親たるもの、何もせずとも己の腹からひり出した子には、神のごとき情愛を注ぐものである、との神話を皆して創り出し、母となった女性(にょしょう)に押しつけていたに過ぎなかったのか」

 という感慨である。
 思えば、拙者が家族というものを、己のこととしない立場で眺め始めたのは、あの時であった。

 その勢いが、昨今、さらに強まってはおらぬか、との思いがひしひしとするのでござる。

 推奨されるご当人方は、先を見る目がある、弱いものの味方、と胸をお張りになっておるのかも知れぬが、あの

 「同性婚」

 というのは、いったいどういう騒ぎなのか。

 古来、有性生殖をする生きものは、雄と雌がつがいになって命を次の世代に引き継ぐものでござる。人ならぬ生きものどもは、なぜか己の中で吹き上がる欲望に駆られてつがい、子をなす。我々人と呼ばれる生きものも、この点では相違はござらぬ。愛だの恋だのは、その欲望を包んで見えなくする包装紙のようなものとも申してもよろしかろう。異論のある方々は、己の中をじっくりと観察されるがよい。それがわかるから、愛も恋も愛おしくなるのではござらぬか?

 ではあるが、人たるものは他の生きものとは違っておるのでござる。
 やりたくてやっちゃって、子ができる。犬猫の類は、最初こそ授乳するなど子育ての真似をするものの、ある程度育てばあとはほったらかし。きゃつらには、家族を構成するという考えがござらぬ。
 だが、私ども人間は家族を作って子を慈しみ育てる。さよう、家族とは、ともに作った、あるいは作ってしまった子供を間において、男と女が取り結ぶ関係であるというのが、近代社会の地平であったと申せましょう。
 それは、家の存続を核として家族を営んだ前近代社会からの進化とおっしゃる方々もおいでになる。

 では、子をなさぬことを前提とした、人と人との性を仲介とした関係は、家族を構成するのか?

 無論、努力しても子ができぬ男女もおいでになる。子を作らぬことを前提に、営みだけを楽しむ男女も散見する。子を作りたくても作れない関係にある男と女の関係もある。

 しかし、でござる。
 そもそも、生物学的に絶対に子供ができない取り合わせのつがいが、何故に結婚という制度の中に入らねばならないのであるか。
 世に趣味趣向は多彩であることは認めるに吝かでない。古代ギリシャの哲人や織田信長が好んだ男色をいまの世で好まれる方がおいでになっても不思議はない。ああ、そうか。私と違う方がおられる、と無視するだけである。男日照りであった大奥の女中が、女同士で様々な器具を用い、快楽にふけったこともあったと聞き及ぶ。それも、それぞれの女性の、やむにやまれぬ欲望のはけ口であろう。
 だが、そのような間柄が、結婚という制度に包摂されるのは、良い例えを思いつかぬが、まったく異質なものを同じ風呂敷で包んでしまうような、妙にザワザワする心持ちがするのでござる。

 ああ、結婚の意味、中身が違ってきた

 と申せばよろしかろうか。

 そこに昨日、最高裁の判決が出申した。
 夫婦別姓を許さなくても憲法違反ではない、というのは妥当であると存ずる。が、反対意見なるのもを申し建てられた判事が、15人中5人もおいでになった。ということは、時間がたてば、今日の5人が6人、7人になり、やがて過半数を戦すると見た方がよろしかろう。我が国は、夫婦別姓に向かって舵を切ったのではございますまいか。

 何故に夫婦が違った姓を名乗らねばならぬのか。生まれた子は、どちらの姓を引き継ぐのか。離婚する場合はどうするのか。母の姓を引き継いだ子が父と一緒に暮らし、父の姓を引き継いだ子が母の元へ走る、ということも普通になるのではござらぬか。となれば、混乱が混乱を呼ぶことは目に見えておるのではありますまいか。

 いや、そのような事を申し立てたいのではござりませぬ。
 ああ、これも

 家族制度の解体への1歩

 ではないかと感ずるのでございます。
 それでなくとも、自律的に解体に向かっておる家族というものを、一刻も早くなくしてしまいたい。家族とは男と男でも、女と女でも成立し、男と女が家族になっても、名乗る姓はそれぞれ違ってよろしい。生まれた子はどちらの姓をつけようと、かってにせーや。

 それで私どもの考える家族が構成できましょうや。それでは、私どもがいま、家族と考えている人と人のつながりは、単なる人間関係の1つに成り果てるのではありますまいか。

 「そう、人と人を結ぶのは愛だけ。家族関係がすべて愛でつながれる純粋なものになるのよ」

 との考え方も成り立つかみ知れませぬ。だが、その方々はご存じないのでありましょうか。

 とは、他の何者とも同じく、やがては褪せるものである

 という事実であります。
 家族というつながりがあるが故に、褪せた愛は次の新しい、次元の違った愛を生む。愛だけで、申してみれば、相手の方への執着だけで成り立っている関係は、愛が褪せたとき、どのような推移を辿るのでありましょうや。

 それに比べれば、待婚期間は100日まで、などというのはどうでもいいことと存じます。離婚後、焦るように結婚する男と女というものは、離婚前からやること、やりたいことはやっておると考えるのが常識ではありませぬか。父親がどちらの男かを判別するために待婚期間を設けるなどということが、まったく現実を見ない空理空論であることは、多くの方にご賛同いただけると存じます。
 結婚という儀式を経ねば、子作りにつながる行為に耽らない男女が、今の世にどれほどおりましょう。そのような天然記念物にも等しい方々は、このような身のない議論に耽られる学者の方々や判事の方々のみ、と拙者は切って捨てるのでありまする。いや、その方々も、口と身体は違っておられるかも知れませぬなあ。

 というか、ホント、結婚なんて制度はあってもなくてもいいようなもので、そんな制度があろうとなかろうと我々の先人たちはせっせと次の世代を生み育てたのである。だから、時代とともにその中身が変わることに何の違和感もない。

 だが、このような動きを、これでもかこれでもかと持て囃し、違和感を持つ私のような人間に

 「お前らは保守・反動である」

 といわんばかりの言説を、陳腐な学者、評論家を総動員して垂れ流すメディアには限りない違和感を持つ。君たち、時代の歯車が1つ回れば大きな軋みが生まれることを知る知性はないのか? 軋みに対する恐れはないのか?

 それを抜きにすれば、ひょっとしたら我々は大変に面白い時代を生きているのかも知れない、と歯車が回るのを楽しんで観察している私である。



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