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 2017年2月27日 変だよ

 最近、日誌執筆のペースが落ちている。それは前回も記述した。何故だろう? と、ちょいと考えてみた。

 「ははあ」

 と思いついたのは、暮らしのリズムの変化である。

 しばらく前まで、日誌を書くのは午後9時頃からの作業であった。夜の食事を終え、時間があれば映画を1本鑑賞する。それから、やおら取りかかったのが日誌執筆という順だった。

 ところがこのところ、この時間は、専ら映画を見る作業に取られている。事情は前回書いたので省くが、映画を見終わると11時、12時になっているので布団を敷き、マッケンジー体操をこなして横になり、読書に入るのがならいとなった。
 日誌を書く時間がなくなったのだ。

 それでは、と夕刻を日誌執筆にあてることにした。ところがこの時間、なかなかままならない。外に出ていて午後5時を回って帰宅することもある。昼食後にデスクで始めた作業が長引くこともある。ついつい読書に耽っていることもある。パソコンゲームに夢中になっていることも……。そして6時からは入浴の時間だし、風呂から出れば夕食が待っている。
 日誌を1回分書くのに、おおむね2時間ほどかかる。というわけで、

 「あ、日誌を書かねば」

 と思いついたら、入浴の時間が迫っていた、ということの繰り返しなのである。

 さて、だとすればどの時間を日誌執筆にあてればいいか? 目下検討中だ。ちなみに、本日は午後4時15分あら始めた。


 それにしても、である。
 
 プレミアムフライデー

 という、何とも不思議な国民運動が、先週末にスタートした。物珍しいのか、メディアはこぞって取材に走り回った。NHKなんぞは、午後3時で仕事を終え、それからお茶会や飲み会に歓声を上げる若い女どもを映し出していた。
 この図を見て、

 「変だろ、それ」

 と声を荒げたのは私である。何故か。

 何でも、個人消費を呼び起こすのが、政府と経団連が組んだこの国民運動の狙いなのだそうだ。仕事をしなくていい時間が増えればみんな財布の紐を緩めて買い物や飲み食いに動くだろうという読みである。

 だけどさ、消費者って、時間があれば金をばらまくしか脳がないアホばかりなのか? 急ぎ自宅に戻り、普段へできない勉強に取り組む、なんてヤツはいないのか?

 という解釈もある。私もその通りだと思う(自分で指摘しながら、その通りだというのも変だが……)が、違和感の正体は違う。

 へーっ、月末の金曜日、つまりプレミアムフライデーの午後3時からは、働かなくてもいい人と働かねばならない人が画然と別れるのね、という違和感である。プレミアムフライデーを、午後3時までしか働かずに楽しむ人たちと、プレミアムフライデーの午後3時以降はいつも以上に仕事に追われる人たち、だ。

 いつも以上に仕事に追われる人たちが商店主や事業主なら、かき入れ時が増えた、と喜ぶのだろう。だが、プレミアムフライデーに午後3時以降働かずに済むようになった人々は、おおむね大企業のサラリーマン、それに役人程度である。ということは、買い物も飲み食いも、おおむね都会が舞台になる。都会の商店や飲食店、旅行代理店など客が増えるのではないかと予想される業種で働く人たちは、これもほとんどがサラリーマンである。
 同じサラリーマンなのに、一方は余暇を謳歌し、他方は仕事に追われる。これって、変じゃないか? 大手企業や役所で働くサラリーマンだけが喜び、そうではない人たちは仕事に追われる。これって、いまでもある格差を拡大するだけではないか?

 とお考えになる記者様は、私が見る限りどこにもいらっしゃらなかったらしい。権力者が振り始めた旗の下で踊るだけなら、自らをジャーナリストなどとは呼ばないでいただきたい。奴らの魂胆を見透かして、

 「なにやってんだ、バカめ!」

 と喝破するのが皆さんのお仕事であると思うのだが。


 それにしても、である。
 日本人はどこまで働かなくなるのだろう? 日本人がどんどん働かなくなって、日本という国は持つのか?

 私の記憶によると、日本人の労働時間が短縮され始めたのは1990年前後からのことである。日本との経済競争に敗れて危機感を持ったアメリカさんが「日米構造協議」というヤツを持ちかけた。日本の製品がこれだけアメリカで売れるのに、アメリカの製品はちっとも日本で売れない。これは日本社会の構造に問題があるはずだ、というのがアメリカの主張、というか、アメリカの言いがかりであった。
 その中で、

 日本人は働き過ぎである

 ということになり、アメリカさんのご機嫌を取るため、日本の休日が増えた。祝祭日が増えただけでなく、祝祭日とと土曜日が重なれば翌週の月曜日が休みなる、という類である。
 まあ、私もその余禄に預かって休みが増えた口だったから強いことはいえないが、それをきっかけに、いつの間にか

 働かないのが正義

 になりつつあるように見える。残業時間が多い会社員が自殺すると、会社が責任を負わねばならない判決が沢山出る。電通の女子社員が自殺したら、これも会社の責任になっちゃった。そして関係者は

 「2度と同じ悲劇を繰り返してはならない!」

 と労働時間の短縮を呼びかける。

 ちょっと待っていただきたい。自殺するとは相当の事である。残業時間が多かったことも自殺の一因であったののかもしれない。だが、同じように長時間労働をこなしながらも、自殺しない人たちのほうがはるかに多数派である。仕事にどれほど追われようと、睡眠時間を削って働いていても、ほとんどの人は自殺しない。
 人はそれぞれ違った環境で育ち、それぞれに違った人格を形成する。そして、その中のほんの一部の人が自ら命を絶つ行動に出る。もちろん、そこまで追い込まれた方々に哀悼の意は持っている。だからこそ思う。

 自殺の原因は長時間度労働だけなのか? と。
 生育環境、それによって自ら培った自らの人格に、自殺を招き寄せる要因はなかったのか? と。


 自ら死を選んだ原因は本人にしか分からない。いや、実は本人にもよくわかっていないのかも知れない。多分、沢山の要因が積み重なり、それを受け止める己の性格、人格、人によって大きさが違う器がある。例えてみれば、水が満ちてこぼれそうになっていたコップに小さな石ころが飛びこみ、とうとう水があふれ出すのが自殺ではないのか。
 何故水がこぼれた? その水は何回に分けて、誰と誰が注ぎ込んだのか。自分注いだ水はなかったか? 最後の石は誰が投げ込んだのか。投げ込む石の大きさは誰が決めたのか。投げ込み方は適切だったか?
 自殺の原因を探るとはそのような探求にも似る。実は、すべての要因が水が溢れた原因となっている。それを、1つだけに絞ることができるのか?

 そして、恣意的に選び出した原因で社会の流れを変えていいのか。

 労働とは、自分の力を形にして世の中に埋め込むことだと思う。労働者の味方という立場を貫いたカール・マルクスですら、

 「人間は労働を通して社会的存在になる。社会的存在とは、自分一人の世界の中ではなく、人々との交流の中に生きているということである」

 と語った(と、ネットで検索して知った)。そう、働くということは、実はそれほどいやなことではないのではないか。人は食べるためだけではなく、働くことが楽しいから働くのではないか? それが人間の普通の姿ではないか?

 無論、現実には、働くのは家族の暮らしのため、と割り切っている人がいる。働く目的は出世、と粉骨砕身する人もいる。
 だけど、それってつまらなくないか? 1日の大半の時間を費やす仕事が、家族のための難行苦行であり、出世のための手段にしか過ぎないとしたら、そのひとの人生って何なのだろう?

 最近、経営書を多数読んだことは前に書いた。それによると、あのアメリカのエリートの働きぶりは凄まじいらしい。働き過ぎといわれた日本人よりも遥かに仕事に費やす時間が多いとある。
 アメリカとは豊富な資源、食料、広い国内市場を持つ国である。その国のエリートは、日本人より遥かに働き虫だというのである。資源がなく、食糧自給率が低く、国内市場が限られている日本で、

 労働は悪

 が定着したらどうなる? 日本は持つのか?

 最近の風潮に危機感を憶える私であった。



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